かぎろひNOW
悠久の奈良大和路を一歩ずつ 風景、もの、人…との出会いを楽しみながら
佐渡旅行③ 世阿弥が配流された万福寺の跡

世阿弥が佐渡島へ配流されたのは、室町時代の永享6年(1434)。時の将軍、足利義教の逆鱗にふれたとされる。齢72歳。この2年前に、息子元雅を亡くしており、心中いかばかりであったろうかと察するに余りある。
だが、世阿弥さん、さすがに常人とはちがう。
配流されたコースや風景を書いた「金島書」なる作品が残っているのだ。7編の小謡とされるが、紀行文風。
これによると、永享6年5月4日、都を出発、若狭の小浜から佐渡島をめざしている。
…
船止むる、津田の入海見渡せば、…、五月も早く橘の、昔こそ身の、若狭路と見えしものを、今は老の後脊山。されども松は緑にて、木深き木末は景色だつ、青葉の山の夏陰の、海の匂ひに移ろひて、さすや潮も青浪の、さも底ひなき水際哉…。
船から見える風景も書きとどめている。
…雪の白山ほの見えて、雪間や遠く残らん。なを行末も旅衣、能登の名に負ふ国つ神、珠洲の岬や七島の、海岸遥かにうつろひて、入日を洗ふ沖つ波、そのまま暮れて夕闇の、蛍とも見る漁火や、夜の浦をも知らすらん。
たなびく雲の立山や、明け行く天の砺波山、倶利伽羅峰までも、それぞとばかり三越路の、船遥々と漕ぎ渡る、末有明の浦の名も、月をそなたの知るべにて、…
ここはと問はば佐渡の海、太田の浦に着にけり。
情緒豊かに風景を切り取っていて、流罪になった船旅とは思えない。
その日は、大田(現在の多田であろう)で泊まり、翌日は峠越えして、万福寺に着いている。
途中、長谷寺にお参りするのだが、
観音の霊地わたらせ給。故郷にても聞きし名仏にて
と、奈良の長谷寺を思う。
佐渡の長谷寺、確認してみると、奈良の長谷寺を模したとか?⇒★
あ、ちょうこくじ、と読むようで。真言宗豊山派、牡丹の名所、十一面観音がご本尊…よく似ているよね。

万福寺跡にある説明板

石碑には

↑
補厳寺世阿弥碑期成会
金井町
とあって、万福寺跡のある金井町と、補厳寺世阿弥碑期成会、が建てたようだ。
補厳寺は、奈良県田原本町にある世阿弥ゆかりのお寺。こちらにある「世阿弥参学之地碑」も、補厳寺世阿弥碑期成会が建てられたと記憶する。
石碑のあるあたり

検索していたら、平成23年に撮られたこんな写真を発見。⇒★
拝借m(__)m

↑写真は石碑が建てられた頃?
現在は手入れが行き届いているとは言い難い状況。何だかちょっとさみしくなったのだった。
※上記、「金島書」の引用は、『日本思想大系 世阿彌 禅竹』(岩波書店)所収より

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コメント
世阿弥
なむ隊長ゞ こんにちは。コメントありがとうございます。
老身で、後継者の息子を亡くしたばかり、遠く離れた所に島流しと聞いただけで、過酷な運命に涙しそうになりますが、そんな心情を表すこともなく、こんな文章を書き残すことができるなんて、スゴイとしか言いようがありません。
佐渡の能文化が今も盛んなのは江戸時代以来と言われていますが、源流は世阿弥さんですよね。それにしては、万福寺跡が…
はい、結崎に発祥の地と「面塚」の碑がありますね。田原本町の補厳寺も世阿弥ゆかりですし、「金島書」でも興福寺薪能に触れています。
URL | かぎろひ #QyAQ.u3g | 2023/09/02 17:21 | edit
こんばんは!
『金島書』の抜粋、さすがに文章が上手ですね。
ありありと情景が浮かんできます。
たしかに流人が失意の中でしたためる文章に思えませんね。
そういえば、川西町結崎に観世発祥の地の碑がありましたね。
お面とネギが天から降ってきたのでしたっけ?
URL | なむさいじょう #xJNZT49Y | 2023/09/01 21:55 | edit
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