かぎろひNOW
悠久の奈良大和路を一歩ずつ 風景、もの、人…との出会いを楽しみながら
神宮寺 その② お水送り
若狭・小浜の町。2度訪れました。JRで、そしてレンタバイクで鯖街道を走っての若狭は素晴らしい歴史の宝庫でした。
「お水送り神事」を書いたころを思い出します。
あっそうでした、たきさんは、神宮寺のお水送り神事について書かれたことがあり、掲示板にも投稿してくださっていました。
現地へ行き、神事について説明するだけではなく、資料にあたり、考察を進められた一文は、とても説得力のある興味深いものでした。
このほど、ご本人の承諾も得ましたので、ご紹介させていただきます。
(※読みやすいように、当方で適当に行あけしました。また、原文は改行1字下げですが、それもなくしていますので、ご了承ください。)
雪の神宮寺本堂(2012.1.27撮影)

若狭、お水送り神事 投稿者:たき 投稿日:2007年 2月20日(火)12時33分52秒
“海のある奈良”というキャッチフレーズに何となく惹かれ、福井県小浜市を訪ねてみたくなった。
そして神宮寺という神仏合体のお寺の説明に「ここから流された水が10日かかって奈良へ流れ着く、その水を汲み上げるのが二月堂のお水取り」から始まってお水送りの神事を事細かく話してくれた。
天平勝宝四年(752)実忠和尚が東大寺二月堂の十一面観音の前で初めて修二会を行った、初夜の終わりに「神名帳」を読み上げて諸国の神々を勧請した。その時若狭の遠敷明神は遅れて来た、そのお詫びのしるしに閼伽水を献じる約束をした。これが「お水送り」の始まりと話す。
お水送りは毎年3月2日に行われている。
神宮寺にての神事の後、近くを流れる遠敷川(おにゅうがわ)を上流2キロにある鵜之瀬まで白装束の行衆が松明を燃やしながら歩いていく。川幅が狭くなりきれいに整地された河原が鵜之瀬という所。
道から鵜之瀬への石段を降りると小さな社があり、護摩を焚きここで送水神事を行い川の対岸にて送水文を読み上げて水送りの行を行う、と和尚は話す。この水が10日間地下水脈を通って東大寺二月堂の若狭井に流れ着くと言われている。
では何故若狭からでなければいけないのか。諸国の神々を勧請している中で若狭の遠敷明神でなければ「何故」いけないのか。私なりに考えてみた。
初めて修二会を行った時、「神名帳」を読み上げて諸国の神々を勧請した。という事はそれまでに全国の神々が東大寺かそれに相当する寺、または平城京の内部に登録されていた証しである。
「諸国の神々」とは言い換えれば諸国の情報を把握していた。その組織図によって銅像の銅の調達、金の発見がなされたのではと考えている。
冊子『ひらり枚方Vol・10』によると
天平21年(749)2月、奈良の都に入った知らせは、時の聖武天皇をたいそう喜ばせました。
「陸奥国ヨリ始メテ黄金ヲ貢ス」 その頃東大寺の大仏建立に力を注いでいた聖武天皇は、その塗金用の黄金の調達に頭を悩ませていました。
その様な時に日本国内で初めて金が産出されたという知らせが届いたのです。
黄金を貢いだのは百済王敬福(くだらのこにきし・きょうふく)、その時の陸奥守でした。
と記されている。
修二会より3年前に日本で初めて金が発見された。陸奥守の敬福によってであった。
これは考え方を変えれば、最初に金鉱脈の情報があって、百済系の金の採掘技術者集団が金を採取するのに都合が良い様にと、国からの代表者として百済一族のトップを陸奥守に据えたのではとも考えられる。(後にその恩賞として今の枚方に膨大な土地を賜ったとある。)
採取精錬された「金」は船で若狭小浜まで運び、ここで川舟に積み替え北川という川を東に向かって進む。今の熊川(江戸時代は熊川宿)まで川舟で、ここからは人力で峠を越えればもう琵琶湖。琵琶湖を船で湖東へ、ここからは人力で信楽から奈良へ、又のルートは琵琶湖を大津の石山寺あたりまで、川舟に積み替え瀬田川、宇治川、木津川と進めば奈良はもうそこ。
この二つのルートは古代より確立されていたはず。
またお水送りの神事が行われた遠敷川(おにゅうがわ)は水銀が産出される土地を表す「にゅう」の名が付く。ここでも金メッキに使用される水銀が多く産出されて先のルートによって東大寺まで運ばれたはず。
これはどうしても「物」の流れが、神事としてのお水送り、お水取り、と変化していったのでは。
また若狭小浜は海流に乗って朝鮮半島からの渡来人も多くあったとある。そしてその渡来人の高度な技術集団が水銀、金の産出、東大寺大仏造立に貢献したはず。
古代より若狭と奈良は繋がりがあったのでは、朝鮮半島よりの渡来人が上陸して大和へ向かったのも若狭から、租税や貢物も東北から北前船で若狭へ、そして先に記したルートで大和へ運んだのではと私は想像している。
だから、そこから諸国の神々と若狭の遠敷明神との扱い方の違いがあるのでは。
若狭北川上流の熊川には資料館もありその時々の川による輸送の資料が置いてある。熊川は、若狭から近江今津へ至る若狭街道(九里半街道)の宿場町であった、近江今津は琵琶湖の辺。
また時代が下って若狭から京都へは「鯖街道」としても有名、若狭で取れた鯖に塩をして背中に背負い一昼夜かけて京都に着く頃には丁度よい塩かげんの塩鯖が出来ていたと言われている。
若狭は奈良、京都とその時々の都とは深い繋がりがあった事がうかがえる。
そういう物の流れが神格化してお水送り、お水取りになったのではと私は考えている。 (おわり)
↓たきさんは、これまで書かれてきたエッセイを『東風に吹かれて』という文集にまとめられました。すでに第3集まで出されています。

文章はもちろんのこと、入力、装丁、製本まで、全てお一人で仕上げられました。
第1集は家族の歴史、第2集は禅に関すること、最新の第3集には、ご紹介した上記の文章も入っています。

←第3集の目次
いずれも力作ですが、今回は神宮寺にちなみ、其の二だけのご紹介となりました。また機会があれば、他のも転載させていただきたいと思います。
第3集のほとんどは「かぎろひ掲示板」へ投稿くださったもの。
また、たきさんのたっての願いと厚意で、エッセイ集は掲示板の仲間に配布されました。
読んでみたい、と思われた方は、ぜひ掲示板へお越しくださって一言残していってくださいね。
もしかしたら、第4集が発行されたときには、ゲットできるかもしれません。
なーんて無責任な発言でした~^^;
※「かぎろひ掲示板」の常連さんは、今のところ、ほとんどの方が奈良県外に在住の奈良好きさんという顔ぶれ。
楽しい情報交換などしています。
お仲間、大歓迎。よろしければ、どうぞ、ご遠慮なく書き込みくださいませ~

写真では“若狭神宮”に見えますが、“寺”の字が隠れてしまいました^^;
はからずも、神社のような、お寺のような、不思議な感じが出ましたね…
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コメント
こんばんは!
文章を転載させていただき、ありがとうございました。
なにしろ、私自身はちょっと見しただけで何もわかりませんので、たいへん参考になりました。
神宮寺にも十一面観音さんはいらっしゃいましたが、小浜の他のお寺のも拝観したくてなりません。
また行きたい思いにかられています。
東大寺シリーズ、続編をぜひお願いしたいと思います。
URL | かぎろひ #79D/WHSg | 2012/01/31 22:53 | edit
らん♪ちゃん
こんばんは!
なんだか、不思議なことがいっぱいですね。
渡来人のおかげで、日本の文化の基礎が育まれたといっても過言ではないですものね。
辛国神社、つい行きすぎてしまいますが、今度からやはりちゃんと立ち寄ってお参りしたいと思います。
神宮寺にももう一度なるべく早く行きたくて仕方がありません。
URL | かぎろひ #79D/WHSg | 2012/01/31 22:47 | edit
リンネさん
こんばんは!
さすが、リンネさんらしい着眼点ですね。
一般には目立ちませんが、お寺では大きな行事の前には辛国神社にお参りされるようですね。
天狗社の言い伝えもいろいろあるようで、おもしろいですね。
>遠敷・・・これは「オ」は美称で小丹生かな?赤土、水銀とも関係するのか?
たきさんもおっしゃっていますが、私もそう思っていました。
奈良時代初めの好字二字令のときに、字を変えたのではないでしょうか。
URL | かぎろひ #79D/WHSg | 2012/01/31 22:41 | edit
私の拙い素人文にもかかわらず掲載されたことは感激です。うれしいです。
小浜へ訪れるきっかけは「十一面観音巡礼」 白洲正子著 です。そして息子が大阪へ転勤となり住まいが枚方になったことで「ひらり枚方」を手にすることが出来たのが重なりました。
先に「東大寺大仏造立の陰」を書いていましたのでその続きとして書くことができました。
こうして皆様に読んでいただけることで「東大寺・其の四」も書かなければとも思っています。
辛国神社は知りませんでした。機会があれば訪れて「其の四」に書き入れてみたいです。
URL | たき #79D/WHSg | 2012/01/31 14:44 | edit
おはようございます。
>辛国神社は東大寺にとって大切な神社だったと思います。
こちらの神社は不思議でした。
そういう意味があったのですね。
渡来人への敬意からだとは気が付きませんでした。
鯖街道は、若狭から最短距離なので奈良に帰る時は
ほぼ鯖街道で帰ります。
最短距離を見出した古来人にお手上げです(*_*;
おはようございます。
>古代より若狭と奈良は繋がりがあったのでは、朝鮮半島よりの渡来人が上陸して大和へ向かったのも若狭から、租税や貢物も東北から北前船で若狭へ、そして先に記したルートで大和へ運んだのではと私は想像している。
>だから、そこから諸国の神々と若狭の遠敷明神との扱い方の違いがあるのでは。
ここが重要ですね。
奈良太郎の西に辛国神社が祀られていますね。
少し解り難いところですが、鎮座地が大仏殿を見守るというか大仏殿造営に貢献した渡来人に敬意した表れでしょうか?大仏殿を見下ろすところに鎮座しています。
大仏殿造営は多くの渡来人も使われたと思います。
若狭の語源も面白い
遠敷・・・これは「オ」は美称で小丹生かな?赤土、水銀とも関係するのか?
辛国神社は東大寺にとって大切な神社だったと思います。
でも何故 天狗社と呼ばれていたのか気になるところです。
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