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かぎろひNOW

悠久の奈良大和路を一歩ずつ  風景、もの、人…との出会いを楽しみながら

辻邦生が書こうとした実朝 

テレビはあまり観ないものの、大河ドラマには関心あり。が、連続ドラマというのがどうも歯がゆい。次回が気になるし、見落とすこともあるし、1年間落ち着かない(笑)。なので、『鎌倉殿の13人』も観ないことにしていた。夫が病院で観ていたらしくて、先週、ついのぞき見したら、もうアカン。昨夜もつい楽しみに観てしまい、こんなことなら最初から観るんだったと後悔する始末(笑)

昨日(⇒)、西行の歌を調べるのに取り出した「日本古典文学大系」には『山家集』と実朝の『金槐和歌集』で一冊になっていたのも奇遇だったなあ。

220912金槐和歌集


そうして、辻邦生が次の小説のテーマとしていたのが、源実朝だった。構想だけで終わり、幻になってしまったのが残念。
このあたりは、辻邦生の逝去後に、夫人の佐保子さんが『辻邦生のために』で書かれている。

220912辻邦生のために


最初は主人公を藤原定家と考えていたそうで、タイトルも『定家春秋』だったとか。

『西行花伝』に続いて定家と後鳥羽院を主人公にした小説を書くという三部作の計画は、かなり以前からのものであり、親しい友人や編集者の方たちにもしばしば話していた。『嵯峨野明月記』の時代は「銀の時代」、西行、定家、後鳥羽院の時代は「金の時代」とも呼んでいたようである。『定家春秋』というタイトルは、年次ははっきりしないものの、かなり古い創作ノートにすでに記されており、九九年になってもまだときおり使っていた。

他方、すでに七四年には漢文体の『吾妻鏡』を購入しており、八四年のメモには『鎌倉吾妻鏡(仮題)』とも記されている。そこには、「時代の政治と文学の葛藤がクロノロジカルに続いてゆき、主人公個人のわずらい、煩悩を越えて大いなる自己へと高まってゆく」と書かれている。

その横に簡単な図式が添えられており、水平方向の矢印には承久の変、実朝の死と書き込まれ、斜め右に上るもう一本の矢印は「大いなる自己」の上昇方向を示しているのであろう。これは辻邦生の文学の根底にある苦悩にみちた理想主義、あるいは倫理観を極端に単純化した図式といえる。


いつからかとは言えないある時期以降、定家から実朝へ、京都から鎌倉へと、主な関心が移行していった。最後には隠岐の島(後鳥羽院)も定家もしだいに後景に退き、鎌倉と実朝に収斂してゆく。それと同時に「浮舟」という仮題が浮上し、この新しい構想を名指すようになる。



なぜ『源氏物語』を連想するような「浮舟」というタイトルを付けたかについては、長くなるので、気になる方は本でご確認あれ。

佐保子夫人は、辻邦生が手帳に残したメモを紹介している。

鎌倉八幡宮の石段を火におびえた牛車の牛が駆け落ちてくる。
群集は立ちすくみ、牛車は微塵にこわれる。
実朝暗殺。嵐の夜。
定家 予感におののく。
式子内親王 伊勢にゆく。
歌の神がいる。
後鳥羽院 歌の神を生かす。
美しく生きる。強く生きるのではなく空や雲や日の出や夜や星を友として一つに生きる。
その実朝の全宇宙がある。
中国にゆこうとする。


辻邦生は、鎌倉取材の日のことを「地の霊 土地の霊」という文章にしている。『微光の道』所収

220912微光の道



鎌倉にでかけた日は台風が近づいており、雲が怪しげに慌ただしく空を走っていた。とりわけ鎌倉の町を背後から取り囲む源氏山のあたりから重い「気」が流れてきた。実朝が暗殺された日も、こんな日に違いないと私は思った。それはただ迷信などというものではなく、ある不気味な気配がそこに冷たい空気のように澱んでいるのである。


まぼろしとなった辻邦生の『浮舟』、読みたかったなあ。
どんな展開になったのかはもちろん誰にもわからないが、言えることは、歴史上の実朝その人ではないということ。単なる歴史小説ではないということだ。ユリアヌスやボッティチェリ、織田信長、本阿弥光悦、俵屋宗達…らと同じように。同様に、読後、身体の中に一陣のさわやかな風が吹く、はず。

辻邦生自身も書いていた。

今度「新潮」に書く作品の主人公は実朝だが、この実朝もいわゆる歴史上の人物としての実朝ではない。いうなれば、妖怪変化に包まれ、現実に足を置いたというより、神霊の気配の中で生きている実朝である。

私がこんど鎌倉にいったのは、眼に見えない存在を小説に書こうと思ったためである。『西行花伝』のあと、私は戦によって生き、死ぬ人間たちをより深く見つめたいと思ったが、源平の惨憺たる戦のあとでは、私にできることは、このあるようでない男と女というものを、そのまま形なき姿で描くことではないかと思うようになった。それは神霊の力をしばしば借りて出入りする世界だが、思えば『西行花伝』まで、私はいわゆる現実という存在に根を置いて仕事をしたことがなかった。リアリズムとは何かと思いつめたこともなかったが、それでも現実と幻想のあわいに存在するものを見ないでは、結局は生とは何かに答えられないのではないかと考える。最近は、男と女を分割して見る考え方が主流であり、愛とかやさしさ、なつかしさといった感じ方は危機に瀕し、破滅に向かっている。生命を暖かい感情で包むことは、現在では何か例外的な営みと感じなければならないように強いられている。

文学がいつ頃から感じるというこの存在の大きな流れを見失ったのか知らないが、鎌倉にゆくというこの小さな小さな旅立ちにも、こんな喜びと怖れと希望がかくされていることを思うと、私は思わず、旅立ちの日の曇り空にささやかな神霊たちを呼び出して、どうかもう一度、失われた愛を見出したいと思うのだ。

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Posted on 2022/09/12 Mon. 14:01 [edit]

category: 辻邦生

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