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かぎろひNOW

悠久の奈良大和路を一歩ずつ  風景、もの、人…との出会いを楽しみながら

難波宮跡で孝徳天皇を思う 

6月23日、長楽庵で安田さんの写真展を楽しんだ後(⇒)、難波宮跡へ立ち寄りました。

220623難波宮

220623難波宮跡

大阪城の南側になります。




発掘調査の結果、前期と後期の2つの宮跡が見つかりました。前期は孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)、後期は聖武天皇ですね。

20200906遺跡の概要
↑クリックで拡大(2020.9.6撮影)

220623難波宮跡2

220623難波宮跡4


この宮で、ひとり孤独のうちに亡くなった孝徳天皇に思いを馳せました。

歴史年表は、たんたんと記すだけですが

220629年表
↑パンフレット「難波宮たんけん隊」から


『日本書紀』からは、哀れな孝徳天皇や、実権を握っていたのは中大兄皇子だということが浮かび上がります。
ちょっと見てみましょうか。

645年 「乙巳の変」で蘇我氏が滅亡。皇極天皇は孝徳天皇に譲位。難波宮へ遷都。

『日本書紀』によると
皇極天皇は中大兄皇子を天皇にしたかったのだが、中大兄は断り、軽皇子(中大兄の叔父さん)が即位。軽皇子も、「再三に固辞」したのだが、中大兄皇子と鎌足にはかられて、孝徳天皇に。このとき、天皇は50歳、中大兄皇子は20歳。中大兄は皇太子となって実権を掌握。

孝徳天皇は2人目のお妃として、間人皇女(中大兄の同母妹)を迎える。
最初の奥さんは小足媛で、有間皇子を生んでいる。


そして、難波宮へ遷都するも、653年、中大兄皇子が突然「飛鳥へかえろうよ」と言い出す。

天皇「許したまはず」。

で、どうなったかというと、

皇太子、すなはち皇祖母尊・間人皇后を奉り、あはせて皇弟等を率て往きて倭飛鳥河邊行宮に居します。時に、公卿大夫・百官の人等、皆随ひて遷る。

なんと、中大兄皇子は、皇極上皇や大海人皇子をはじめ、あろうことか、間人皇后までひきつれて飛鳥へ帰ってしまうのです。お役人たちもみんなそれに付き従ったといいます。

1人置き去りにされた孝徳天皇は、悲しみにうちひしがれて病に伏し、翌年、さみしく世を去ります。


皇后までもが自分を見捨てて去ったとき、天皇は皇后に向けて恨んで詠んだ歌とあるのが

鉗(かなき)着け 吾が飼ふ駒は 引き出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか

「かぎろひ歴史探訪」でセンセが、直木孝次郎先生が書かれているとよく話しますが、その本を見つけましたので、ちょっと引いてみますね。


中大兄はただ間人皇后をつれ去っただけだろうか。2人は恋愛関係におちいっていたのではあるまいか。同母の兄と妹が、まさかと思われるが、間人皇后のおもいきったふるまいは、その疑惑をひきおこすに十分である。


賑わいをとりもどした飛鳥の都で皇位についたのは、人々の期待した中大兄皇子ではなくて、皇極太上天皇であった。斉明天皇という。中大兄が皇位を辞退したのは、皇太子の身分でいたほうが自由に腕をふるえるからであるというのが通説だが、間人皇女と結ばれていたからかもしれない。同じ母から生まれた兄妹の結婚は、当時でも忌まれていた。中大兄が天皇になれば、間人皇女を皇后に立てなければならないが、それを実行することは社会の慣習がゆるさない。間人への愛をつらぬくために、中大兄はあえて即位をみおくったと私は考えたい。それから七年たって斉明天皇が死んだのちも、中大兄はすぐには即位せず、依然、皇太子のまま政治をとる。彼が正式に即位して天智天皇となるのは、665年に間人皇女が死んでからである。それは斉明の死後七年目、間人の死後三年目の六六八年のことであった。

(直木孝次郎著『飛鳥 その光と影』より)



孝徳天皇 大阪磯長陵(山田上ノ山古墳)

2020孝徳天皇陵
(2020.8.12撮影)

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Posted on 2022/06/29 Wed. 11:38 [edit]

category: 県外

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