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かぎろひNOW

悠久の奈良大和路を一歩ずつ  風景、もの、人…との出会いを楽しみながら

聖林寺十一面観音 

奈良国立博物館で、特別展「国宝 聖林寺 十一面観音 三輪山信仰のみほとけ」が開催中です。

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2月10日に鑑賞させていただきながら、ご報告が遅くなりました。

これまで、なんども、拝観させていただいているのですが、いやー、今回のような開放的な展示は初めてです。ガラスに遮られることなく、しかも、360度どこからでも拝むことができるのです。

これだけ大きな像を拝観するには、やはり広い空間が必要なのだと感じたことでした。
胸や肩がごっつい印象だったのですが、意外にも細くすらりとしなやかな腰や手の表情に目を奪われました。

220210奈良博


なかなかうまく表現できなくて残念なのですが、これまで、たくさんの偉人がどのように表現されたのか気になり、手元にある書を読み直してみました。

まずは、白洲正子『十一面観音巡礼』より

さしこんで来るほのかな光の中に、浮び出た観音の姿を私は忘れることができない。それは今この世に生れ出たという感じに、ゆらめきながら現れたのであった。その後何回も見ているのに、あの感動は二度と味えない。世の中にこんな美しいものがあるのかと、私はただ茫然とみとれていた。

観音様は本尊の隣の部屋に、お厨子ともいえない程の、粗末な板がこいの中に入っておられた。その為に膝から下は見えず、和辻さんが賛美した天衣の裾もかくれている。が、そんなことは少しの妨げにもならなかった。


観音様からうけた感動を静めようとして、私はしばらく桜の木の下にたたずんでいた。ちょうど日が落ちる時刻で、紅色の桜が一段と濃く染り、大和の青垣山が、夢のように霞んでいる。その中に、ひときわ優れて立つ三輪の甘南備は、今見たばかりの十一面観音の姿に似ているように思われた。いつしか私の心の中で、観音と三輪山としだれ桜は重なり合い、一つの「風景」として育って行った。…



白洲正子さんが、和辻さんが賛美した…と書かれている、その和辻さんの文章。
和辻哲郎『古寺巡礼』より

きれの長い、半ば閉じた眼、厚ぼったい瞼(まぶた)、ふくよかな唇、鋭くない鼻、――すべてわれわれが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、また超人を現わす特殊な相好があるわけでもない。しかもそこには神々しい威厳と、人間のものならぬ美しさとが現わされている。薄く開かれた瞼の間からのぞくのは、人の心と運命とを見とおす観自在の眼である。豊かに結ばれた唇には、刀刃(とうじん)の堅きを段々に壊り、風濤洪水の暴力を和やかに鎮(しず)むる無限の力強さがある。円く肉づいた頬は、肉感性の幸福を暗示するどころか、人間の淫欲を抑滅し尽くそうとするほどに気高い。これらの相好が黒漆の地に浮かんだほのかな金色に輝いているところを見ると、われわれは否応なしに感じさせられる、確かにこれは観音の顔であって、人の顔ではない。

この顔をうけて立つ豊かな肉体も、観音らしい気高さを欠かない。それはあらわな肌が黒と金に輝いているためばかりではない。肉づけは豊満でありながら、肥満の感じを与えない。四肢のしなやかさは柔らかい衣の皺にも腕や手の円さにも十分現わされていながら、しかもその底に強剛な意力のひらめきを持っている。ことにこの重々しかるべき五体は、重力の法則を超越するかのようにいかにも軽やかな、浮現せるごとき趣を見せている。これらのことがすべて気高さの印象の素因なのである。

かすかな大気の流れが観音の前面にやや下方から突き当たって、ゆるやかに後ろの方へと流れて行く、――その心持ちは体にまといついた衣の皺の流れ工合で明らかに現わされている。それは観音の出現が虚空での出来事であり、また運動と離し難いものであるために、定石として試みられる手法であろうが、しかしそれがこの像ほどに成功していれば、体全体に地上のものならぬ貴さを加えるように思われる。

肩より胸、あるいは腰のあたりをめぐって、腕から足に垂れる天衣の工合も、体を取り巻く曲線装飾として、あるいは肩や腕の触覚を暗示する微妙な補助手段として、きわめて成功したものである。左右の腕の位置の変化は、天衣の左右整斉とからみあって、体全体に、流るるごとく自由な、そうして均勢を失わない、快いリズムをあたえている。

横からながめるとさらに新しい驚きがわれわれに迫ってくる。肩から胴へ、腰から脚へと流れ下る肉づけの確かさ、力強さ。またその釣り合いの微妙な美しさ。これこそ真に写実の何であるかを知っている巨腕の製作である。われわれは観音像に接するときその写実的成功のいかんを最初に問題としはしない。にもかかわらずそこに浅薄な写実やあらわな不自然が認められると、その像の神々しさも美しさもことごとく崩れ去るように感ずる。だからこの種の像にとっては写実的透徹は必須の条件なのである。そのことをこの像ははっきりと示している。



土門拳『古寺巡礼』より

わたしは、聖林寺十一面観音を何時間もみつめているうち、フト、これは三輪山の神大物主の化身ではないか、と思えて仕方がなかった。それは菩薩の慈悲というよりは、神の威厳を感じさせた。


小川光三「聖林寺十一面観音の手」より

堂々とした体躯を持ちながら、いま天上から舞い降りた瞬間のように軽やかな、しかも威厳と慈悲に溢れたこの像は、私の最も好きな観音像である。

仏像には、温かく迎え入れてくれるような優しさと、恐ろしい威厳の両面があって、この二つの面の融合が見事であるほど大きな感動を受けるようである。この像はそうした面でも、重さと軽さという造形性でも、見事に相対する両面の巧妙なバランスを持っている。

また正面から拝すと、いかにも観音像の典型のように端正であるが、側面へ目を移すと思いがけぬほどの厚みがあり、背面は、まるで高々と天を衝く居杉の幹を見上げているような、荒々しいまでの力強さに驚ろかされる。



寺尾勇『奈良散歩 落日の古都』より

聖林寺十一面観音。大和路に来るたび私は今日まで幾度この前にたたずんだことでしょう。相も変わらない静けさと柔らかさ、そして心一杯に満ち足りたふくらみをもつ手の線を見つめると、旅にある哀愁が今さらのように湧き立ちます。

豊満ではあるが決して肥満ではなく、ひとかたまりの肉でありながらついに肉ではない。脂肪の重さと霊魂の軽さ、厳格と頽廃を合わせもったようなこの像の前に立つと、日頃から反逆の刃を研げば研ぐほど、かえってそのあとで包容してくれる無量の愛ーそんなものがまぶたに姿となってあらわれます。

ともかくも、私はこの二,三年、あわただしい世の中でとげとげしかった一切のものが、一つ一つ、この像の前に立つと確実に無条件に吸い込まれてゆくのを拒むことはできませんでした。


※特別展 国宝 聖林寺十一面観音 三輪山信仰のみほとけ
3月27日(日)まで




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Posted on 2022/02/23 Wed. 21:11 [edit]

category: 奈良国立博物館

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