かぎろひNOW
悠久の奈良大和路を一歩ずつ 風景、もの、人…との出会いを楽しみながら
『風越峠にて』 二上山ルートを検証
2021年7月29日は「園生忌」。辻邦生さんが亡くなって22年になる。この日はやっぱり、辻さんがらみのことを書きたいと思う。
これまで何度か触れていると思うのだが、奈良に関わる数少ない小説『風越峠にて』について。
運命的な男女の物語。大津皇子と大伯皇女、あるいは大津の妃、山辺皇女からの着想ではないかと思う。折口信夫『死者の書』も。
30年の歳月を経て、谷村明は学生時代の友人「私」を誘い「糸のように途切れたもの」を見つけるために二上山へ登る。
今回のワタクシのテーマは、さて、どのルートで二上山へ登ったかという検証。どうでもええことなんやけど(笑)。それに、もちろん脚色も創作もあるだろうし。ま、ワタクシの趣味みたいなものなので、スルーしてね。
辻邦生さんは、『風越峠にて』を執筆する前年に二上山に登っている。
「辻邦生全集」20の年譜によると
昭和49年(1974)49歳
…
11月、二上山、賤ヶ岳、余呉湖、安土、比叡山をめぐる。
とある。
おそらく、『風越峠にて』の取材も入っていたにちがいない。翌、昭和50年(1975)〈文学界〉で『風越峠にて』を発表しているのだから。
ワタクシの手元にあるのは新潮文庫「見知らぬ町にて」(1977発行)所収と、中公文庫「辻邦生全短編2」(昭和61年=1986発行)

二上山行きの箇所を抜粋してみる。
…
私たちは昔したように、電鉄に揺られ、幾つか乗り換えをし、耳に慣れた大和の地名を持つ駅を過ぎていった。すでに獲り入れの終った田には、秋らしい日が積み上げた稲束を照らしていた。住宅が密集して続いたあとに工場が現われ、川の堤と自動車道路がそれに続き、ふたたび林と村落と稲田が開けた。大和の山々が日に背いて青く霞んでいた。
二上山の麓の駅に着いたとき、十一時にまだ間があった。
…
2人は京都東山に近いホテルで宿泊。南禅寺の料亭で一献傾けているので、このあたりも知る人なら特定できるのかもしれないが、これはワタクシのエリア外(笑)
さて、京都からは近鉄電車で奈良に向かったはず。橿原神宮前で乗り換え、南大阪線に乗り換えたよね。
二上山に登るルートを考えると、当麻寺駅、二上神社口駅、二上山駅のいずれかで下車したことになる。
雄岳山頂からは
雄岳を下り、駱駝のこぶのあいだの鞍部に似た峰から、雌岳の脇腹をまいて、古代の当麻路が通っている岩屋峠に出たのは正午をすこし過ぎた頃だった。
私たちはそこから杉木立の暗く並んだ岩根伝いの道を下って、当麻寺の塔を、端正な緑の木立の覆う丘陵の中腹に望んだ。
と、下山路を岩屋峠~當麻寺ととっているので、やはり登りは雄岳ルートで間違いない。駅に降り立って雄岳が見えるところからも確信できる。
となると、
二上神社口駅から登ったか、二上山駅からか?
小説から。
駅からすぐ小さな部落があり、それを抜けると、大和でよく見る、枯芝の堤に囲まれた灌漑用池が青く空を映してさざ波をきらめかしていた。池の傍らに小さな祠があって、黄菊が置かれていた。
…
私たちは部落を出て、小さな神社の境内を抜けて山道にとりついた。ぬるでや漆が雑木の林のなかで一際赤々と空の青さのなかに映え出ていた。
ふむ。この文章だけでは二上神社口駅か二上山駅か、特定できかねる。
どちらにも、集落があり、溜池があり、山道にとりつく手前に神社があるのだから。
でも、ワタクシが両ルートを歩いた印象から、独断と偏見で決定しようっと(笑)
かぎろひ的には「二上山駅」とみたい。

理由 説得力のあるほうから(笑)
その①
私たちは眼の下に拡がりはじめた奈良盆地と青く霞む笠置山連山を眺めた。
登られたのは40数年前なので樹木の成長を考えると、もっと展望がよかったのかもしれないが、いちばん開けるのは6合目。

奈良盆地から若草山、笠置方面まで一望。40年も前ならもっと広い範囲を見渡せたと思われる。
二上山駅から雄岳をめざすと、自然にこの場所を通ることになるが、二上神社口からだと、行くことはできるが、また引き返さないといけないのだ。これは不自然やね。
その②
二上神社口駅ルートでは、登山道すぐ脇にある神社までずっと上り道が続く。集落に沿って坂道が続いている感じ。逆に言えば、坂道の両側に軒並みが続く。小説の記述とちょっとそぐわない印象だ。

その③
駅前から見た二上山。二上神社口駅前は↑のように、民家の屋根の上に雄岳が顔を出す。
二上山駅前からだと

目の前に穏やかな山容が現われる。駅に着いて
谷村は二上山の雄岳の鷹揚な、まるく盛り上がった山容を眺めながら言った。…
という表現がピッタリ。
④二上神社口駅から続く登山道もまた、二上山駅ルートに比べると険しい。
現在は階段続き。

40年前、もしもまだ階段整備されていなかったとなれば、さらに険しかったことは想像に難くない。おしゃべりしながら歩きにくい。道幅も狭い。
そこへくると、二上山駅ルートはしばらくハイキングレベルだ。

⑤東京の人が初めて二上山に登ろうということになって、しかもまず雄岳へとなれば、おそらくこちらを選ぶだろうなと思う。今のようなインターネットはないにしても、電話して確認できるしね。
それに、「二上神社口駅」より「二上山駅」を選びたくなろうというもの(笑)
⑥最近、ワタクシが二上山駅からお山へ登るときは、田んぼが見えるのどかな道を行くことが多いのだが

これだと、駅からすぐ小さな部落があり、それを抜けるとという表現にそぐわないよね。駅前から続く集落はあるので、ここを抜けていったと考えると話は合う(笑)
趣ある畑集落

はずれに溜池もある。
ここから、春日神社を抜けて

雄岳をめざしたのではないか。
以上がワタクシの推理である。
あー、どうでもええことに時間を割いてしまったよ(笑)
でも、楽しかった。
これまで何度か触れていると思うのだが、奈良に関わる数少ない小説『風越峠にて』について。
運命的な男女の物語。大津皇子と大伯皇女、あるいは大津の妃、山辺皇女からの着想ではないかと思う。折口信夫『死者の書』も。
30年の歳月を経て、谷村明は学生時代の友人「私」を誘い「糸のように途切れたもの」を見つけるために二上山へ登る。
今回のワタクシのテーマは、さて、どのルートで二上山へ登ったかという検証。どうでもええことなんやけど(笑)。それに、もちろん脚色も創作もあるだろうし。ま、ワタクシの趣味みたいなものなので、スルーしてね。
辻邦生さんは、『風越峠にて』を執筆する前年に二上山に登っている。
「辻邦生全集」20の年譜によると
昭和49年(1974)49歳
…
11月、二上山、賤ヶ岳、余呉湖、安土、比叡山をめぐる。
とある。
おそらく、『風越峠にて』の取材も入っていたにちがいない。翌、昭和50年(1975)〈文学界〉で『風越峠にて』を発表しているのだから。
ワタクシの手元にあるのは新潮文庫「見知らぬ町にて」(1977発行)所収と、中公文庫「辻邦生全短編2」(昭和61年=1986発行)

二上山行きの箇所を抜粋してみる。
…
私たちは昔したように、電鉄に揺られ、幾つか乗り換えをし、耳に慣れた大和の地名を持つ駅を過ぎていった。すでに獲り入れの終った田には、秋らしい日が積み上げた稲束を照らしていた。住宅が密集して続いたあとに工場が現われ、川の堤と自動車道路がそれに続き、ふたたび林と村落と稲田が開けた。大和の山々が日に背いて青く霞んでいた。
二上山の麓の駅に着いたとき、十一時にまだ間があった。
…
2人は京都東山に近いホテルで宿泊。南禅寺の料亭で一献傾けているので、このあたりも知る人なら特定できるのかもしれないが、これはワタクシのエリア外(笑)
さて、京都からは近鉄電車で奈良に向かったはず。橿原神宮前で乗り換え、南大阪線に乗り換えたよね。
二上山に登るルートを考えると、当麻寺駅、二上神社口駅、二上山駅のいずれかで下車したことになる。
雄岳山頂からは
雄岳を下り、駱駝のこぶのあいだの鞍部に似た峰から、雌岳の脇腹をまいて、古代の当麻路が通っている岩屋峠に出たのは正午をすこし過ぎた頃だった。
私たちはそこから杉木立の暗く並んだ岩根伝いの道を下って、当麻寺の塔を、端正な緑の木立の覆う丘陵の中腹に望んだ。
と、下山路を岩屋峠~當麻寺ととっているので、やはり登りは雄岳ルートで間違いない。駅に降り立って雄岳が見えるところからも確信できる。
となると、
二上神社口駅から登ったか、二上山駅からか?
小説から。
駅からすぐ小さな部落があり、それを抜けると、大和でよく見る、枯芝の堤に囲まれた灌漑用池が青く空を映してさざ波をきらめかしていた。池の傍らに小さな祠があって、黄菊が置かれていた。
…
私たちは部落を出て、小さな神社の境内を抜けて山道にとりついた。ぬるでや漆が雑木の林のなかで一際赤々と空の青さのなかに映え出ていた。
ふむ。この文章だけでは二上神社口駅か二上山駅か、特定できかねる。
どちらにも、集落があり、溜池があり、山道にとりつく手前に神社があるのだから。
でも、ワタクシが両ルートを歩いた印象から、独断と偏見で決定しようっと(笑)
かぎろひ的には「二上山駅」とみたい。

理由 説得力のあるほうから(笑)
その①
私たちは眼の下に拡がりはじめた奈良盆地と青く霞む笠置山連山を眺めた。
登られたのは40数年前なので樹木の成長を考えると、もっと展望がよかったのかもしれないが、いちばん開けるのは6合目。

奈良盆地から若草山、笠置方面まで一望。40年も前ならもっと広い範囲を見渡せたと思われる。
二上山駅から雄岳をめざすと、自然にこの場所を通ることになるが、二上神社口からだと、行くことはできるが、また引き返さないといけないのだ。これは不自然やね。
その②
二上神社口駅ルートでは、登山道すぐ脇にある神社までずっと上り道が続く。集落に沿って坂道が続いている感じ。逆に言えば、坂道の両側に軒並みが続く。小説の記述とちょっとそぐわない印象だ。

その③
駅前から見た二上山。二上神社口駅前は↑のように、民家の屋根の上に雄岳が顔を出す。
二上山駅前からだと

目の前に穏やかな山容が現われる。駅に着いて
谷村は二上山の雄岳の鷹揚な、まるく盛り上がった山容を眺めながら言った。…
という表現がピッタリ。
④二上神社口駅から続く登山道もまた、二上山駅ルートに比べると険しい。
現在は階段続き。

40年前、もしもまだ階段整備されていなかったとなれば、さらに険しかったことは想像に難くない。おしゃべりしながら歩きにくい。道幅も狭い。
そこへくると、二上山駅ルートはしばらくハイキングレベルだ。

⑤東京の人が初めて二上山に登ろうということになって、しかもまず雄岳へとなれば、おそらくこちらを選ぶだろうなと思う。今のようなインターネットはないにしても、電話して確認できるしね。
それに、「二上神社口駅」より「二上山駅」を選びたくなろうというもの(笑)
⑥最近、ワタクシが二上山駅からお山へ登るときは、田んぼが見えるのどかな道を行くことが多いのだが

これだと、駅からすぐ小さな部落があり、それを抜けるとという表現にそぐわないよね。駅前から続く集落はあるので、ここを抜けていったと考えると話は合う(笑)
趣ある畑集落

はずれに溜池もある。
ここから、春日神社を抜けて

雄岳をめざしたのではないか。
以上がワタクシの推理である。
あー、どうでもええことに時間を割いてしまったよ(笑)
でも、楽しかった。
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