かぎろひNOW
悠久の奈良大和路を一歩ずつ 風景、もの、人…との出会いを楽しみながら
粟原寺跡
『かぎろひの大和路』次号(復刊35号)のテーマは「廃寺」。
いっぱいありすぎるので、エリア別に分け、その①ということになりますが、次号では奈良県北部(奈良市以外)の、東の山寄りになるでしょうか。具体的には龍センセに聞いてください(笑)。
粟原寺(おおばらでら)も入るというので、12月10日、現地へ行ってきました。
つい10日ほど前(12月2日)、粟原の古墳探訪(⇒★)へ行ったとき、粟原公民館の所でお弁当タイムとなったので

さっさと食べて、ひとっ走り、粟原寺跡まで行ってこようかなと思ったのですが、勝手な行動をして迷惑をかけてはいかん、いかんと。出直したというわけです。
でも、粟原寺跡とムネサカ古墳などを絡めて「かぎろひ歴史探訪」コースができないかという検証をちゃっかり(笑)。ま、実現するとしても、来年の12月頃になるでしょうか^^;
粟原寺跡へは、桜井駅南口から大宇陀行きバスにのって12分、「粟原」下車

国道から見る粟原の集落

さあ、粟原寺跡を目ざしましょう。坂道をどんどん上ってゆきます。

せせらぎに沿う、緩やかな坂道沿いの、重厚な集落のたたずまい

何度も来たことがあるような懐かしさ。
こんな感じって、奈良県各地にありますよね。パッと思い浮かぶのは、明日香村栢森集落。
道なりに進み、分かれ道には道標があるので、迷うことなく、粟原寺跡へと導かれます。

↑峠を越えると大宇陀。
以前から、行きたいなあと思っているのですが、1人ではちょっとこわそうで…^^;
ハイキングしませんか~。
集落のいちばんの高台に、粟原寺跡はあります。
途中、振り返った風景。


発掘調査はされていませんが、金堂と三重塔があったと見られています。

一段低くなった所にも、たくさんの礎石が並んでいましたが、

これは移動されたもののようです。

「粟原寺」が注目を集める最大の理由は、三重塔の伏鉢(国宝)が談山神社に残り、建立に至る由来が刻まれていることでしょう。
キーワードは比売朝臣額田。
『奈良県の地名』から転載してみます。
此粟原寺者仲臣朝臣大嶋惶惶請願奉為大倭国浄美原
宮治天下天皇時日並御宇東宮敬造伽檻之尓故比売朝
臣額田以甲午年始至於和銅八年合廿二年中敬造伽檻
而作金堂仍造釈迦丈六尊像
和銅八年四月敬以進上於三重塔七科鑪盤矣
仰願藉此功徳
天武天皇の時、仲臣大嶋が草壁皇子のために伽藍を造営することを発願、
額田というものが持統天皇の八年起工、まず金堂をつくり、丈六の釈迦像を安置、大嶋の没後二二年にあたる和銅八年(715)に至って三重塔も整った
説明が2つありました。


『桜井風土記』(栢木喜一著 桜井市発行)には次のように書かれています。
(談山神社妙楽寺に残る)この「露盤銘」から中臣朝臣大島が額田王晩年の夫だとし、更に石位寺の三尊石仏は粟原寺のものであり、しかも額田王の念持仏との洞察断定が炯眼の詩人加納諸平、尾山篤二郎、保田與重郎三先覚の積み重ねによりなされた。額田王ゆかりの地である忍坂の地続きの粟原の地に粟原寺が立っていた理由もうなずけるというもの。
…
また軽の皇子(後の文武天皇)が父日並皇子尊のみ狩りのあとを慕って安騎野に宿りますとき、柿本人麻呂のよんだ「東の野にかぎろひの立つ見えてかへりみすれば月傾きぬ」との名吟で知られている、このときの一行の通路も、古くからの道、粟原の村をへ、半坂越えに宇陀の大野に向かわれたのではなかろうか。当寺にまつわる想像はつきそうにない。
『奈良県の地名』には、寺跡の西側に立つ十三重石塔のことにも触れていますので、ひいておきます。
鶴の子の塔といい、鎌倉後期の作。もと現宇陀市大宇陀町大字半坂道にあったもので、明治二十二年(1889)にこの地に移されたという。
また、このお寺伝来の仏像(粟原流れ)が各地に残っているとか。
奈良博で修理されて、先ごろお寺にもどられた外山(とび)の法恩寺のご本尊もそうだったのですね。
仏像館で拝観していたので、ちょっと感慨あり。法恩寺のHPにも書かれていました。⇒★
桜井市観光協会⇒★
粟原寺跡とムネサカ古墳、越塚古墳などを訪ねる「かぎろひ歴史探訪」ウォークがはたして可能か? の検証は次回に。
いっぱいありすぎるので、エリア別に分け、その①ということになりますが、次号では奈良県北部(奈良市以外)の、東の山寄りになるでしょうか。具体的には龍センセに聞いてください(笑)。
粟原寺(おおばらでら)も入るというので、12月10日、現地へ行ってきました。
つい10日ほど前(12月2日)、粟原の古墳探訪(⇒★)へ行ったとき、粟原公民館の所でお弁当タイムとなったので

さっさと食べて、ひとっ走り、粟原寺跡まで行ってこようかなと思ったのですが、勝手な行動をして迷惑をかけてはいかん、いかんと。出直したというわけです。
でも、粟原寺跡とムネサカ古墳などを絡めて「かぎろひ歴史探訪」コースができないかという検証をちゃっかり(笑)。ま、実現するとしても、来年の12月頃になるでしょうか^^;
粟原寺跡へは、桜井駅南口から大宇陀行きバスにのって12分、「粟原」下車

国道から見る粟原の集落

さあ、粟原寺跡を目ざしましょう。坂道をどんどん上ってゆきます。

せせらぎに沿う、緩やかな坂道沿いの、重厚な集落のたたずまい

何度も来たことがあるような懐かしさ。
こんな感じって、奈良県各地にありますよね。パッと思い浮かぶのは、明日香村栢森集落。
道なりに進み、分かれ道には道標があるので、迷うことなく、粟原寺跡へと導かれます。

↑峠を越えると大宇陀。
以前から、行きたいなあと思っているのですが、1人ではちょっとこわそうで…^^;
ハイキングしませんか~。
集落のいちばんの高台に、粟原寺跡はあります。
途中、振り返った風景。


発掘調査はされていませんが、金堂と三重塔があったと見られています。

一段低くなった所にも、たくさんの礎石が並んでいましたが、

これは移動されたもののようです。

「粟原寺」が注目を集める最大の理由は、三重塔の伏鉢(国宝)が談山神社に残り、建立に至る由来が刻まれていることでしょう。
キーワードは比売朝臣額田。
『奈良県の地名』から転載してみます。
此粟原寺者仲臣朝臣大嶋惶惶請願奉為大倭国浄美原
宮治天下天皇時日並御宇東宮敬造伽檻之尓故比売朝
臣額田以甲午年始至於和銅八年合廿二年中敬造伽檻
而作金堂仍造釈迦丈六尊像
和銅八年四月敬以進上於三重塔七科鑪盤矣
仰願藉此功徳
天武天皇の時、仲臣大嶋が草壁皇子のために伽藍を造営することを発願、
額田というものが持統天皇の八年起工、まず金堂をつくり、丈六の釈迦像を安置、大嶋の没後二二年にあたる和銅八年(715)に至って三重塔も整った
説明が2つありました。


『桜井風土記』(栢木喜一著 桜井市発行)には次のように書かれています。
(談山神社妙楽寺に残る)この「露盤銘」から中臣朝臣大島が額田王晩年の夫だとし、更に石位寺の三尊石仏は粟原寺のものであり、しかも額田王の念持仏との洞察断定が炯眼の詩人加納諸平、尾山篤二郎、保田與重郎三先覚の積み重ねによりなされた。額田王ゆかりの地である忍坂の地続きの粟原の地に粟原寺が立っていた理由もうなずけるというもの。
…
また軽の皇子(後の文武天皇)が父日並皇子尊のみ狩りのあとを慕って安騎野に宿りますとき、柿本人麻呂のよんだ「東の野にかぎろひの立つ見えてかへりみすれば月傾きぬ」との名吟で知られている、このときの一行の通路も、古くからの道、粟原の村をへ、半坂越えに宇陀の大野に向かわれたのではなかろうか。当寺にまつわる想像はつきそうにない。
『奈良県の地名』には、寺跡の西側に立つ十三重石塔のことにも触れていますので、ひいておきます。
鶴の子の塔といい、鎌倉後期の作。もと現宇陀市大宇陀町大字半坂道にあったもので、明治二十二年(1889)にこの地に移されたという。
また、このお寺伝来の仏像(粟原流れ)が各地に残っているとか。
奈良博で修理されて、先ごろお寺にもどられた外山(とび)の法恩寺のご本尊もそうだったのですね。
仏像館で拝観していたので、ちょっと感慨あり。法恩寺のHPにも書かれていました。⇒★
桜井市観光協会⇒★
粟原寺跡とムネサカ古墳、越塚古墳などを訪ねる「かぎろひ歴史探訪」ウォークがはたして可能か? の検証は次回に。
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