かぎろひNOW
悠久の奈良大和路を一歩ずつ 風景、もの、人…との出会いを楽しみながら
音楽と映像で巡る奈良の四季
6月17日、「ムジークフェストなら2017」の一環として開催された「千住真理子 & 保山耕一 ~Four Seasons~ 音楽と映像で巡る奈良の四季」を鑑賞(奈良県文化会館 国際ホール)。

●出演者
千住 真理子【せんじゅ まりこ】(ヴァイオリン)
保山 耕一【ほざん こういち】(映像)
延原 武春【のぶはら たけはる】(指揮)テレマン室内オーケストラ
●プログラム
一部:四季/A.ヴィヴァルディ
二部:・ヴァイオリンとストリングオーケストラの為の「四季」/千住明
・風林火山メインテーマ~大河流々~/千住明
二部で展開された千住真理子さんのヴァイオリンと保山耕一さんの映像作品とのコラボは想像を超えるすばらしさだった。
正直なところ、保山さんの映像ファンであるワタクシからしても、著名な千住さんの演奏、300歳というストラディバリウスの名器「デュランティ」を前にしてはさすがに引けをとるのではないかと少々の心配もしていたのだ(ゴメンナサイ)。
しかし、舞台では両者伍して、さらに高め合い、別世界へといざない、人々の心のひだに深く入り込んだのだった。演奏会の新たなかたちを生み出したといっても過言ではないのではないか。終了後、千住さんも、これからの演奏活動に大きな影響があるでしょう、と語っていらっしゃった。
とはいえ、どんな映像でもいいわけではない。保山さんならではの渾身の作品だからこそ、人々を感動の渦に巻き込んだのだろうと思う。
保山さんは「人に見せるために撮ったのではない」と言われた。死をまぢかに感じたとき、奈良の美しい風景たちにありがとうという気持ちで撮ったのだと。
映像にあふれている奈良の美しさ、生命力。夕日を浴びて、黙々と田仕事をする人、うごめく虫、誰にも知られず咲く花、風のにおい、水の流れ、すべてが愛おしい。
そうして、ああ、一回きりの人生を大切にしなくては、という思いをひしひしとかみしめるのである。
ワタクシは辻邦生作品に大きな影響を受けてきた。
…青空も、風も、花も、人々も、ただ一回きりのものとして、死という虚無にとり囲まれている。この一回きりの生を、両腕にひしと抱き、熱烈に、本気で生きなければ、もうそれは二度と味わうことができないのだー(「樟の新緑が輝くとき」より)
エッセイ集『生きて愛するために』(メタローグ発行 1994.10.15)からの引用だが、その膨大な小説群にも同じテーマが貫かれている。

そう、辻作品から受け取るメッセージと、保山さんの映像に共通したものを感じるのである。
そんなワタクシの心のうちを、円亀山人さんに看破されたのが昨年3月。円亀さんは、古くからの「かぎろひの大和路」読者であり、当を得たブログコメントやメールもくださる大事な方。
昨年3月、このブログ記事(→★)の後、いただいたもの。
かぎろひ様
先のメールやブログへのコメントで書き切れなかったことの捕捉です。
映像作家の保山耕一さんの生き様と、その姿勢から生まれた映像作品の訴求力は、小手先の技術など問題外の「人間力」そのものの世界だと思いました。いわゆる「魂の記録」でしょうか。
人間もその一部である自然との同化(等質化)の世界へと、保山耕一さんを踏み込ませた一因が
「病」であり、自然と自己、つまりは「生命」を凝視し純化する働きが作品に反映している気がします。
…この方とかぎろひ様の間柄は文学では「辻邦生」さんにあてはまる存在なのかも知れませんね。
「奈良、時の雫」→★

●出演者
千住 真理子【せんじゅ まりこ】(ヴァイオリン)
保山 耕一【ほざん こういち】(映像)
延原 武春【のぶはら たけはる】(指揮)テレマン室内オーケストラ
●プログラム
一部:四季/A.ヴィヴァルディ
二部:・ヴァイオリンとストリングオーケストラの為の「四季」/千住明
・風林火山メインテーマ~大河流々~/千住明
二部で展開された千住真理子さんのヴァイオリンと保山耕一さんの映像作品とのコラボは想像を超えるすばらしさだった。
正直なところ、保山さんの映像ファンであるワタクシからしても、著名な千住さんの演奏、300歳というストラディバリウスの名器「デュランティ」を前にしてはさすがに引けをとるのではないかと少々の心配もしていたのだ(ゴメンナサイ)。
しかし、舞台では両者伍して、さらに高め合い、別世界へといざない、人々の心のひだに深く入り込んだのだった。演奏会の新たなかたちを生み出したといっても過言ではないのではないか。終了後、千住さんも、これからの演奏活動に大きな影響があるでしょう、と語っていらっしゃった。
とはいえ、どんな映像でもいいわけではない。保山さんならではの渾身の作品だからこそ、人々を感動の渦に巻き込んだのだろうと思う。
保山さんは「人に見せるために撮ったのではない」と言われた。死をまぢかに感じたとき、奈良の美しい風景たちにありがとうという気持ちで撮ったのだと。
映像にあふれている奈良の美しさ、生命力。夕日を浴びて、黙々と田仕事をする人、うごめく虫、誰にも知られず咲く花、風のにおい、水の流れ、すべてが愛おしい。
そうして、ああ、一回きりの人生を大切にしなくては、という思いをひしひしとかみしめるのである。
ワタクシは辻邦生作品に大きな影響を受けてきた。
…青空も、風も、花も、人々も、ただ一回きりのものとして、死という虚無にとり囲まれている。この一回きりの生を、両腕にひしと抱き、熱烈に、本気で生きなければ、もうそれは二度と味わうことができないのだー(「樟の新緑が輝くとき」より)
エッセイ集『生きて愛するために』(メタローグ発行 1994.10.15)からの引用だが、その膨大な小説群にも同じテーマが貫かれている。

そう、辻作品から受け取るメッセージと、保山さんの映像に共通したものを感じるのである。
そんなワタクシの心のうちを、円亀山人さんに看破されたのが昨年3月。円亀さんは、古くからの「かぎろひの大和路」読者であり、当を得たブログコメントやメールもくださる大事な方。
昨年3月、このブログ記事(→★)の後、いただいたもの。
かぎろひ様
先のメールやブログへのコメントで書き切れなかったことの捕捉です。
映像作家の保山耕一さんの生き様と、その姿勢から生まれた映像作品の訴求力は、小手先の技術など問題外の「人間力」そのものの世界だと思いました。いわゆる「魂の記録」でしょうか。
人間もその一部である自然との同化(等質化)の世界へと、保山耕一さんを踏み込ませた一因が
「病」であり、自然と自己、つまりは「生命」を凝視し純化する働きが作品に反映している気がします。
…この方とかぎろひ様の間柄は文学では「辻邦生」さんにあてはまる存在なのかも知れませんね。
「奈良、時の雫」→★
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