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かぎろひNOW

悠久の奈良大和路を一歩ずつ  風景、もの、人…との出会いを楽しみながら

辻邦生にみる初秋 

2022年9月24日は作家、辻邦生の生誕97年。亡くなった日と誕生日には、辻さん関連のことをゆっくり書きたいと思っている。

ずっと前から、辻さんの小説には「初秋」がよく出てくるなあと感じていた。夏の終わりの、9月あたり。もちろん、他の季節も出てくるのだが、秋ではなくて初秋というところがミソ(笑)

辻邦生が特に初秋を書く〈と思われる〉のは、9月24日生まれのせいもあるのでは?  誕生日が1週間違いのワタクシにとっても9月は特別感があるので、実はひそかにうれしい(笑)

今日、ブログ更新が遅れたのは、「初秋」の箇所を探していたため(笑)。そして、懐かしい小説はつい読みこんだりしてしまい…、今頃になってしまった。

ン十年も前から、辻邦生に「初秋」を感じながら、メモしていたわけではないので、どこに出てきたのか、すぐには指摘できないはがゆさ。ファンとしてはすっと出てくるようになりたいもの(笑)

「初秋」の記述はまだまだあるだろうが、今日、チェックできた箇所をご紹介。

●以前、ブログで紹介したこともあるが⇒
秋の初めの谷間をまた明日になったら歩きはじめよう。灰褐色に渇いた岩尾根の向うから、群青の空を渡ってゆく淡い雲は、夏のころとほとんど変りないが、それでも雲母色の翳りがかすかに感じられるだろう。妻をこの谷間に連れてくることができたら、どんなにか喜んで、初秋の花々を集めてテーブルの上を飾ったことだろうと思う。
…(『円形劇場から』)

●この『円形劇場から』の冒頭にも出ている
今夜も風が出はじめた。いつも秋のはじめになると、この地方には決まって同じような風すじで烈風が走る。雨を含んだ雲が峰と峰の間を変幻しながら動いてゆく。散歩に出る折に、よく驟雨に襲われることがある。牧場の入口とか、谷を下る渓流の丸木橋のそばとか、葡萄畑への上り口とかで、私は、山の斜面をはうように降りこめてくる驟雨に包まれる。…

●二上山を舞台にしたということで、よく採り上げる『風越峠にて』の冒頭
私が山岳地方の旧制高校の頃の友人谷村明から久々で手紙を受けとったのは、まだ残暑の感じられる九月初めのことであった。


●『天草の雅歌』の終盤

220924天草の雅歌

コルネリアが、他の混血児たち二百八十九人と天川に追放されたのはその年の九月二十日のことであった。
樟の巨木をざわめかせる初秋の風のなかをポルトガル船四艘に分乗した長崎の入江をあとにした。
与志は遠ざかる船の艫にコルネリアが髪を風に吹かれじっと立っているのを見まもった。船は帆に風をはらみ、ゆっくり入江を出ていった。浜には身を投げて泣く人々が満ちていた。



●『時の扉』1ページ目

220924時の扉


しなやかに、鷹揚な感じで揺れるポプラの上に、白い雲の塊が、鮮明な輪郭を描いて浮かんでいた。矢口が五年前、この北国の中学校に都落ち同然で赴任してきたとき、まず彼の心を捉えたのが、この澄明な、冷たい北の空に浮かぶ雲であった。特に矢口は夏の終わりの、郷愁を誘う、半透明な雲が、遠く地平線のむこうに消えるのを見るのが好きだったが…



●『雲の宴』上
第十章 沈鐘 冒頭

九月に入ってから、二、三日、夏の盛りを思わせる暑い日があったが、それを越すと、急に初秋らしい爽やかな風が吹きはじめた。白木冴子は、ほっとした気持で、編集室の窓から、鈴懸の葉が白く裏を返して揺れるのを眺めていた。


220924雲の宴

●これも以前ブログで採り上げたことのある「ある生涯の七つの場所」から⇒

220924ある生涯の七つの場所

『夏の海の色』の最後
しかしそのとき、私はまだ城下町を離れていなかったけれど、武井とは遥か遠い距離に立っているような気がした。そしてその遠い距離の間を、ほとんど初秋の風と言ってもいい風が、音を立てて吹きすぎているのを感じた。


『月曜日の記憶』
八月半ばを過ぎると、もうこの北国の町は初秋の気配が濃くなった。それは内地の、あの美しい秋の先触れの爽やかな季節ではなくて、いきなり暗い冬の厳しい気候を暗示する、雲の多い、海の底光る一時期だった。
真夏の盛りにも、どこか熱量の足らなかった純粋な光は、白い淡い微光に変って、変幻する灰色の雲のあいだから、北の海らしい黒ずんだ海面に、神秘な絵画の背景のような光の束となって、射し込んでいた。海鳥の群れが港の防波堤の先で舞っていた。


『城の秋』
田村家のあるその城下町は、七年前とほとんど変っているようには見えなかった。木造の小さな駅舎にせよ、駅前の商人宿にせよ、掘割に沿った柳の並木にせよ、置き忘れた古い水彩画のように、以前と同じたたずまいで、残暑の感じられる静かな九月の午後の日に照らされていた。


実は、辻邦生の小説に「初秋」を感じていたら、あるエッセーに、辻邦生自身が書いたのだった。

四季折々の花や空合いが、最近とくに、生きているうえの恩寵的な贈物と感じられるようになったのは年のせいだろうか。なかんずく九月という月は、私の生まれ月であるせいか、特別に愛着が深い。私が小説のなかに夏の終りのことを書く場合が多いのも、そのせいなのだろう。これは私自身が気づかずにいたが、ある時、読者に指摘されて、あ、そうかと思った。


指摘した読者がワタクシではなくて、ちょっと残念(笑)

その後の文章も素敵なので続けよう。

…旧制高校が信州松本だったので、高原の初秋の気分は最高であると、昔からしみじみ感じていた。
…下宿に帰るとすぐ、まだ残暑のきびしい田や畑の中を、三城牧場や崖の湯あたりまで散歩した。畑は、棚に絡んだ胡瓜や南瓜やトマトなどが、いかにも一夏の太陽に飽食したようにぐったりと疲れて、乾いた葉の端が縮んで黄ばみ出していた。遠い山脈は鋼青色に連なり、乗鞍岳も常念岳も夏と変らぬ鋭い稜線を見せていたが、唐黍畑を吹く風は、さらさらと葉を鳴らし、もう秋がきていることを知らせた。
私はそんな散歩の折、長塚節の歌集をポケットから出して繰り返し読んだ。
白埴の甕こそよけれ霧ながら朝は冷たき水汲みにけり
とか
馬追虫の髭のそよろに来る秋はまなこを閉ぢて想ひみるべし
などという歌を口ずさむと、いまも初秋の高原の風が、若い時のままに、心の中を過ぎていくような気がする。季節の中に生きている幸せが胸の中に脹れあがるのだ。
(「季節の中に生きること」より)
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Posted on 2022/09/24 Sat. 21:14 [edit]

category: 辻邦生

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