かぎろひNOW
悠久の奈良大和路を一歩ずつ 風景、もの、人…との出会いを楽しみながら
30
失敗続きのなかで
2つの団体の事務局を担当している身としては、目下、多忙のピーク。
どうも、トシとともに、頭の柔軟性が欠けてきたり、頭が回らなくなったり、疲れたり…ということが多くなったのではないかと感じる今日この頃。
昨日、会員75人に一斉発信。お返事をいただきたい用件で、送付手段はEメールのほか、ライン、FAX。
一件落着~♪、と肩の荷がおりたつもりでいたら、本日
「いくらFAXしてもうまくいかない」という電話が。
え? ん?
送付した書類を確認してみたら、な! FAX番号が昔のやつ^^;
書類を作るとき、数年前の形式をそのまま利用して、変えるべき内容は修正したつもりだったのだが、FAX番号が以前のままだったとは。引っ越しの時、FAX一本にしていた番号を破棄して、電話と共有にしたのだった。
修正してあわてて、送りなおし。
メールは簡単なのだが、厄介なのはFAX連絡の人。10人ほどいるのよね。
ここだけの話、FAXやめてほしいわ、と(自分の失敗は棚に上げて)ブツブツ言いながら、送りなおし作業(笑)。
同居人もそうだし、すてきなアナログ人間は周りにいっぱいいるので理解はあるつもりだが、この忙しいときにぃ~(笑)
それから、別件でも、締切日を書き忘れて、再送したり^^;
もう、頭が回っていない。
今日も朝から、関連の作業に出かけて、戻ってからも次々にやらねばならない仕事が山積状態。
それなら、ブログなんてやってないで、早く仕事を片づけろよ、と言われそうだが、いやいや、ブログ更新は趣味みたいなものなので、これがちょっといい気分転換になるのよ。
帰ってきて、昨日のランチ会を思い出すのも楽しくて。

温かいメールにも癒されたのであった。
ブログで愚痴をこぼして(笑)、楽しいことを思い出して、さあ、もうちょっとがんばるぞ。
どうも、トシとともに、頭の柔軟性が欠けてきたり、頭が回らなくなったり、疲れたり…ということが多くなったのではないかと感じる今日この頃。
昨日、会員75人に一斉発信。お返事をいただきたい用件で、送付手段はEメールのほか、ライン、FAX。
一件落着~♪、と肩の荷がおりたつもりでいたら、本日
「いくらFAXしてもうまくいかない」という電話が。
え? ん?
送付した書類を確認してみたら、な! FAX番号が昔のやつ^^;
書類を作るとき、数年前の形式をそのまま利用して、変えるべき内容は修正したつもりだったのだが、FAX番号が以前のままだったとは。引っ越しの時、FAX一本にしていた番号を破棄して、電話と共有にしたのだった。
修正してあわてて、送りなおし。
メールは簡単なのだが、厄介なのはFAX連絡の人。10人ほどいるのよね。
ここだけの話、FAXやめてほしいわ、と(自分の失敗は棚に上げて)ブツブツ言いながら、送りなおし作業(笑)。
同居人もそうだし、すてきなアナログ人間は周りにいっぱいいるので理解はあるつもりだが、この忙しいときにぃ~(笑)
それから、別件でも、締切日を書き忘れて、再送したり^^;
もう、頭が回っていない。
今日も朝から、関連の作業に出かけて、戻ってからも次々にやらねばならない仕事が山積状態。
それなら、ブログなんてやってないで、早く仕事を片づけろよ、と言われそうだが、いやいや、ブログ更新は趣味みたいなものなので、これがちょっといい気分転換になるのよ。
帰ってきて、昨日のランチ会を思い出すのも楽しくて。

温かいメールにも癒されたのであった。
ブログで愚痴をこぼして(笑)、楽しいことを思い出して、さあ、もうちょっとがんばるぞ。
29
7か月ぶりの文章教室
9月28日、センセが退院して、初めての文章教室でした。
なんと7か月ぶりです。
皆様、忘れずに出席してくださって大感激でした。
しばらくお休みされていた方や、「かぎろひ歴史探訪」メンバーから初参加があったり、新会員が増えたり、以前参加されていた方が来てくださったり、なんかウルウルしそうでした。

ワタクシが関わってから、最多の出席者となりました。
初めてお会いした方から「ブログ見ていますよ」と言われてちょっと恥ずかしかったのですが、うれしくもあり(笑)
終了後は、「かぎろひ歴史探訪」仲間もかけつけてくださり、なんと24人でのランチ会となりました。
皆様、ほんとうにありがとうございました。
センセも、これを励みにどんどん回復することでしょう。
なんと7か月ぶりです。
皆様、忘れずに出席してくださって大感激でした。
しばらくお休みされていた方や、「かぎろひ歴史探訪」メンバーから初参加があったり、新会員が増えたり、以前参加されていた方が来てくださったり、なんかウルウルしそうでした。

ワタクシが関わってから、最多の出席者となりました。
初めてお会いした方から「ブログ見ていますよ」と言われてちょっと恥ずかしかったのですが、うれしくもあり(笑)
終了後は、「かぎろひ歴史探訪」仲間もかけつけてくださり、なんと24人でのランチ会となりました。
皆様、ほんとうにありがとうございました。
センセも、これを励みにどんどん回復することでしょう。
28
にしんなすび
9月26日の夕食に、今秋初めてのサンマが登場。
じーさんは、これまでスーパーでサンマを見かけても「まだ細い、細い」と言って手を出さなかったのだが、しびれを切らしたか、食卓に上ったサンマもやっぱり細くて、油がのっていなかったよ(笑)

でも、おいしくいただき、少し秋を感じた次第。
↑写真、左上の大きな空の鉢には何が入るのかというと

にしんなすび。
これは今夕のおかずではなく、明日以降。
じーさんが京都の実家から伝承したおかずの1つ。
高野山麓では食べてこなかったので、最初はちょっと敬遠気味ではあったが、すっかり慣れておいしくいただいている。
検索をかけてみると、やっぱり、京都の郷土料理、らしい。⇒★
にしん茄子、または、にしんと茄子の炊いたん、とある。
検索には引っかからないが、じーさんは断じて「にしんなすび」と呼ぶ(笑)
そういえば、「なす」と「なすび」の呼び方の違いって。
高野山麓でも普通に「なすび」を使ってきたけれど、これって、関西の方言? 「び」がステキ(笑)
調べてみると(ネット検索で恐縮。じーさんには叱られそうだけど、笑)
呼び方の由来を解説しているサイトを見つけ~⇒★

おもしろいので、そのまま転載
なすび
日本になすが伝わったのは奈良時代。当時は「奈須比(なすび)」と呼ばれていて、身分の高い人々しか食べられない高級品でした。なすびの語源にはさまざまな説がありますが、夏に実をつけるので「夏実」と呼ばれていた説や、当時のなすには酸味があったことから「中酸実(なかすみ)」という名前がつけられたという説が有力です。また、中国から日本に伝わったときに奈須比と名づけられたという説もあります。
関西をはじめとした西日本では、現在でも「なすび」という呼び方が定着していますよね。これは、当時の都・平城京があったのが奈良県だったためと考えられています。
なす
なすびがなすと呼ばれるようになったのは江戸時代で、その火つけ役は当時の将軍である徳川家康だと言われています。売れ行きがよくなかったなすびの知名度をあげるため、「物事を成す」という意味をかけて「なす」と名づけて売り出したところ、縁起物としてたちまち人気が出たそうです。
「なす」と呼び始めたのは現在の東京である江戸。そのため、関東や東北では今でもなすと呼ぶ人が多いそうですよ。
冒頭で紹介した郷土料理のサイトは農林水産省なので、関東系の「茄子」にしたんちゃうん?(笑)
京都の郷土料理とくれば、ここはやはり「にしんなすび」やろ(笑)
「にしんなす」より「にしんなすび」のほうがなんか語呂がいいしね(笑)
「にしんなすび」は結構、下ごしらえが大変みたい。
ワタクシは説明できないので、今度「じーさんの料理教室」でとり上げようかな(笑)
じーさんは、これまでスーパーでサンマを見かけても「まだ細い、細い」と言って手を出さなかったのだが、しびれを切らしたか、食卓に上ったサンマもやっぱり細くて、油がのっていなかったよ(笑)

でも、おいしくいただき、少し秋を感じた次第。
↑写真、左上の大きな空の鉢には何が入るのかというと

にしんなすび。
これは今夕のおかずではなく、明日以降。
じーさんが京都の実家から伝承したおかずの1つ。
高野山麓では食べてこなかったので、最初はちょっと敬遠気味ではあったが、すっかり慣れておいしくいただいている。
検索をかけてみると、やっぱり、京都の郷土料理、らしい。⇒★
にしん茄子、または、にしんと茄子の炊いたん、とある。
検索には引っかからないが、じーさんは断じて「にしんなすび」と呼ぶ(笑)
そういえば、「なす」と「なすび」の呼び方の違いって。
高野山麓でも普通に「なすび」を使ってきたけれど、これって、関西の方言? 「び」がステキ(笑)
調べてみると(ネット検索で恐縮。じーさんには叱られそうだけど、笑)
呼び方の由来を解説しているサイトを見つけ~⇒★

おもしろいので、そのまま転載
なすび
日本になすが伝わったのは奈良時代。当時は「奈須比(なすび)」と呼ばれていて、身分の高い人々しか食べられない高級品でした。なすびの語源にはさまざまな説がありますが、夏に実をつけるので「夏実」と呼ばれていた説や、当時のなすには酸味があったことから「中酸実(なかすみ)」という名前がつけられたという説が有力です。また、中国から日本に伝わったときに奈須比と名づけられたという説もあります。
関西をはじめとした西日本では、現在でも「なすび」という呼び方が定着していますよね。これは、当時の都・平城京があったのが奈良県だったためと考えられています。
なす
なすびがなすと呼ばれるようになったのは江戸時代で、その火つけ役は当時の将軍である徳川家康だと言われています。売れ行きがよくなかったなすびの知名度をあげるため、「物事を成す」という意味をかけて「なす」と名づけて売り出したところ、縁起物としてたちまち人気が出たそうです。
「なす」と呼び始めたのは現在の東京である江戸。そのため、関東や東北では今でもなすと呼ぶ人が多いそうですよ。
冒頭で紹介した郷土料理のサイトは農林水産省なので、関東系の「茄子」にしたんちゃうん?(笑)
京都の郷土料理とくれば、ここはやはり「にしんなすび」やろ(笑)
「にしんなす」より「にしんなすび」のほうがなんか語呂がいいしね(笑)
「にしんなすび」は結構、下ごしらえが大変みたい。
ワタクシは説明できないので、今度「じーさんの料理教室」でとり上げようかな(笑)
27
新型コロナワクチン4回目
26
9月28日、かぎろひ文章教室
しばらくお休みを頂戴しましたが、田中龍夫の「かぎろひ文章教室」を再開します。
9月28日(水)
10時~12時
奈良県文化会館 第三会議室
準備万端整いました。
今回のテキストは、高橋和巳の随筆「酒と雪と病」

そして、シリーズ、「万葉集」から女性の哀歌をとりあげます。
俳句鑑賞も。
当日飛び込み出席OKです。1500円。
かぎろひ文章教室⇒★
実は、要望もありまして急遽、文章教室終了後に、田中の「退院報告ランチ会」を開くことになりました。
歴史探訪メンバー20人ほどが集まる予定です。
全ての方に連絡できておらず申しわけございません。
もし、このブログをご覧になって、参加ご希望の方がいらっしゃいましたら、ご連絡願います。
会場は近鉄奈良駅近くです。12時30分~
どうぞよろしくお願いいたします。
9月28日(水)
10時~12時
奈良県文化会館 第三会議室
準備万端整いました。
今回のテキストは、高橋和巳の随筆「酒と雪と病」

そして、シリーズ、「万葉集」から女性の哀歌をとりあげます。
俳句鑑賞も。
当日飛び込み出席OKです。1500円。
かぎろひ文章教室⇒★
実は、要望もありまして急遽、文章教室終了後に、田中の「退院報告ランチ会」を開くことになりました。
歴史探訪メンバー20人ほどが集まる予定です。
全ての方に連絡できておらず申しわけございません。
もし、このブログをご覧になって、参加ご希望の方がいらっしゃいましたら、ご連絡願います。
会場は近鉄奈良駅近くです。12時30分~
どうぞよろしくお願いいたします。
25
辻邦生にみる初秋
2022年9月24日は作家、辻邦生の生誕97年。亡くなった日と誕生日には、辻さん関連のことをゆっくり書きたいと思っている。
ずっと前から、辻さんの小説には「初秋」がよく出てくるなあと感じていた。夏の終わりの、9月あたり。もちろん、他の季節も出てくるのだが、秋ではなくて初秋というところがミソ(笑)
辻邦生が特に初秋を書く〈と思われる〉のは、9月24日生まれのせいもあるのでは? 誕生日が1週間違いのワタクシにとっても9月は特別感があるので、実はひそかにうれしい(笑)
今日、ブログ更新が遅れたのは、「初秋」の箇所を探していたため(笑)。そして、懐かしい小説はつい読みこんだりしてしまい…、今頃になってしまった。
ン十年も前から、辻邦生に「初秋」を感じながら、メモしていたわけではないので、どこに出てきたのか、すぐには指摘できないはがゆさ。ファンとしてはすっと出てくるようになりたいもの(笑)
「初秋」の記述はまだまだあるだろうが、今日、チェックできた箇所をご紹介。
●以前、ブログで紹介したこともあるが⇒★
秋の初めの谷間をまた明日になったら歩きはじめよう。灰褐色に渇いた岩尾根の向うから、群青の空を渡ってゆく淡い雲は、夏のころとほとんど変りないが、それでも雲母色の翳りがかすかに感じられるだろう。妻をこの谷間に連れてくることができたら、どんなにか喜んで、初秋の花々を集めてテーブルの上を飾ったことだろうと思う。
…(『円形劇場から』)
●この『円形劇場から』の冒頭にも出ている
今夜も風が出はじめた。いつも秋のはじめになると、この地方には決まって同じような風すじで烈風が走る。雨を含んだ雲が峰と峰の間を変幻しながら動いてゆく。散歩に出る折に、よく驟雨に襲われることがある。牧場の入口とか、谷を下る渓流の丸木橋のそばとか、葡萄畑への上り口とかで、私は、山の斜面をはうように降りこめてくる驟雨に包まれる。…
●二上山を舞台にしたということで、よく採り上げる『風越峠にて』の冒頭
私が山岳地方の旧制高校の頃の友人谷村明から久々で手紙を受けとったのは、まだ残暑の感じられる九月初めのことであった。
●『天草の雅歌』の終盤

コルネリアが、他の混血児たち二百八十九人と天川に追放されたのはその年の九月二十日のことであった。
樟の巨木をざわめかせる初秋の風のなかをポルトガル船四艘に分乗した長崎の入江をあとにした。
与志は遠ざかる船の艫にコルネリアが髪を風に吹かれじっと立っているのを見まもった。船は帆に風をはらみ、ゆっくり入江を出ていった。浜には身を投げて泣く人々が満ちていた。
●『時の扉』1ページ目

…
しなやかに、鷹揚な感じで揺れるポプラの上に、白い雲の塊が、鮮明な輪郭を描いて浮かんでいた。矢口が五年前、この北国の中学校に都落ち同然で赴任してきたとき、まず彼の心を捉えたのが、この澄明な、冷たい北の空に浮かぶ雲であった。特に矢口は夏の終わりの、郷愁を誘う、半透明な雲が、遠く地平線のむこうに消えるのを見るのが好きだったが…
●『雲の宴』上
第十章 沈鐘 冒頭
九月に入ってから、二、三日、夏の盛りを思わせる暑い日があったが、それを越すと、急に初秋らしい爽やかな風が吹きはじめた。白木冴子は、ほっとした気持で、編集室の窓から、鈴懸の葉が白く裏を返して揺れるのを眺めていた。

●これも以前ブログで採り上げたことのある「ある生涯の七つの場所」から⇒★

『夏の海の色』の最後
しかしそのとき、私はまだ城下町を離れていなかったけれど、武井とは遥か遠い距離に立っているような気がした。そしてその遠い距離の間を、ほとんど初秋の風と言ってもいい風が、音を立てて吹きすぎているのを感じた。
『月曜日の記憶』
八月半ばを過ぎると、もうこの北国の町は初秋の気配が濃くなった。それは内地の、あの美しい秋の先触れの爽やかな季節ではなくて、いきなり暗い冬の厳しい気候を暗示する、雲の多い、海の底光る一時期だった。
真夏の盛りにも、どこか熱量の足らなかった純粋な光は、白い淡い微光に変って、変幻する灰色の雲のあいだから、北の海らしい黒ずんだ海面に、神秘な絵画の背景のような光の束となって、射し込んでいた。海鳥の群れが港の防波堤の先で舞っていた。
『城の秋』
田村家のあるその城下町は、七年前とほとんど変っているようには見えなかった。木造の小さな駅舎にせよ、駅前の商人宿にせよ、掘割に沿った柳の並木にせよ、置き忘れた古い水彩画のように、以前と同じたたずまいで、残暑の感じられる静かな九月の午後の日に照らされていた。
実は、辻邦生の小説に「初秋」を感じていたら、あるエッセーに、辻邦生自身が書いたのだった。
四季折々の花や空合いが、最近とくに、生きているうえの恩寵的な贈物と感じられるようになったのは年のせいだろうか。なかんずく九月という月は、私の生まれ月であるせいか、特別に愛着が深い。私が小説のなかに夏の終りのことを書く場合が多いのも、そのせいなのだろう。これは私自身が気づかずにいたが、ある時、読者に指摘されて、あ、そうかと思った。
指摘した読者がワタクシではなくて、ちょっと残念(笑)
その後の文章も素敵なので続けよう。
…旧制高校が信州松本だったので、高原の初秋の気分は最高であると、昔からしみじみ感じていた。
…下宿に帰るとすぐ、まだ残暑のきびしい田や畑の中を、三城牧場や崖の湯あたりまで散歩した。畑は、棚に絡んだ胡瓜や南瓜やトマトなどが、いかにも一夏の太陽に飽食したようにぐったりと疲れて、乾いた葉の端が縮んで黄ばみ出していた。遠い山脈は鋼青色に連なり、乗鞍岳も常念岳も夏と変らぬ鋭い稜線を見せていたが、唐黍畑を吹く風は、さらさらと葉を鳴らし、もう秋がきていることを知らせた。
私はそんな散歩の折、長塚節の歌集をポケットから出して繰り返し読んだ。
白埴の甕こそよけれ霧ながら朝は冷たき水汲みにけり
とか
馬追虫の髭のそよろに来る秋はまなこを閉ぢて想ひみるべし
などという歌を口ずさむと、いまも初秋の高原の風が、若い時のままに、心の中を過ぎていくような気がする。季節の中に生きている幸せが胸の中に脹れあがるのだ。(「季節の中に生きること」より)
ずっと前から、辻さんの小説には「初秋」がよく出てくるなあと感じていた。夏の終わりの、9月あたり。もちろん、他の季節も出てくるのだが、秋ではなくて初秋というところがミソ(笑)
辻邦生が特に初秋を書く〈と思われる〉のは、9月24日生まれのせいもあるのでは? 誕生日が1週間違いのワタクシにとっても9月は特別感があるので、実はひそかにうれしい(笑)
今日、ブログ更新が遅れたのは、「初秋」の箇所を探していたため(笑)。そして、懐かしい小説はつい読みこんだりしてしまい…、今頃になってしまった。
ン十年も前から、辻邦生に「初秋」を感じながら、メモしていたわけではないので、どこに出てきたのか、すぐには指摘できないはがゆさ。ファンとしてはすっと出てくるようになりたいもの(笑)
「初秋」の記述はまだまだあるだろうが、今日、チェックできた箇所をご紹介。
●以前、ブログで紹介したこともあるが⇒★
秋の初めの谷間をまた明日になったら歩きはじめよう。灰褐色に渇いた岩尾根の向うから、群青の空を渡ってゆく淡い雲は、夏のころとほとんど変りないが、それでも雲母色の翳りがかすかに感じられるだろう。妻をこの谷間に連れてくることができたら、どんなにか喜んで、初秋の花々を集めてテーブルの上を飾ったことだろうと思う。
…(『円形劇場から』)
●この『円形劇場から』の冒頭にも出ている
今夜も風が出はじめた。いつも秋のはじめになると、この地方には決まって同じような風すじで烈風が走る。雨を含んだ雲が峰と峰の間を変幻しながら動いてゆく。散歩に出る折に、よく驟雨に襲われることがある。牧場の入口とか、谷を下る渓流の丸木橋のそばとか、葡萄畑への上り口とかで、私は、山の斜面をはうように降りこめてくる驟雨に包まれる。…
●二上山を舞台にしたということで、よく採り上げる『風越峠にて』の冒頭
私が山岳地方の旧制高校の頃の友人谷村明から久々で手紙を受けとったのは、まだ残暑の感じられる九月初めのことであった。
●『天草の雅歌』の終盤

コルネリアが、他の混血児たち二百八十九人と天川に追放されたのはその年の九月二十日のことであった。
樟の巨木をざわめかせる初秋の風のなかをポルトガル船四艘に分乗した長崎の入江をあとにした。
与志は遠ざかる船の艫にコルネリアが髪を風に吹かれじっと立っているのを見まもった。船は帆に風をはらみ、ゆっくり入江を出ていった。浜には身を投げて泣く人々が満ちていた。
●『時の扉』1ページ目

…
しなやかに、鷹揚な感じで揺れるポプラの上に、白い雲の塊が、鮮明な輪郭を描いて浮かんでいた。矢口が五年前、この北国の中学校に都落ち同然で赴任してきたとき、まず彼の心を捉えたのが、この澄明な、冷たい北の空に浮かぶ雲であった。特に矢口は夏の終わりの、郷愁を誘う、半透明な雲が、遠く地平線のむこうに消えるのを見るのが好きだったが…
●『雲の宴』上
第十章 沈鐘 冒頭
九月に入ってから、二、三日、夏の盛りを思わせる暑い日があったが、それを越すと、急に初秋らしい爽やかな風が吹きはじめた。白木冴子は、ほっとした気持で、編集室の窓から、鈴懸の葉が白く裏を返して揺れるのを眺めていた。

●これも以前ブログで採り上げたことのある「ある生涯の七つの場所」から⇒★

『夏の海の色』の最後
しかしそのとき、私はまだ城下町を離れていなかったけれど、武井とは遥か遠い距離に立っているような気がした。そしてその遠い距離の間を、ほとんど初秋の風と言ってもいい風が、音を立てて吹きすぎているのを感じた。
『月曜日の記憶』
八月半ばを過ぎると、もうこの北国の町は初秋の気配が濃くなった。それは内地の、あの美しい秋の先触れの爽やかな季節ではなくて、いきなり暗い冬の厳しい気候を暗示する、雲の多い、海の底光る一時期だった。
真夏の盛りにも、どこか熱量の足らなかった純粋な光は、白い淡い微光に変って、変幻する灰色の雲のあいだから、北の海らしい黒ずんだ海面に、神秘な絵画の背景のような光の束となって、射し込んでいた。海鳥の群れが港の防波堤の先で舞っていた。
『城の秋』
田村家のあるその城下町は、七年前とほとんど変っているようには見えなかった。木造の小さな駅舎にせよ、駅前の商人宿にせよ、掘割に沿った柳の並木にせよ、置き忘れた古い水彩画のように、以前と同じたたずまいで、残暑の感じられる静かな九月の午後の日に照らされていた。
実は、辻邦生の小説に「初秋」を感じていたら、あるエッセーに、辻邦生自身が書いたのだった。
四季折々の花や空合いが、最近とくに、生きているうえの恩寵的な贈物と感じられるようになったのは年のせいだろうか。なかんずく九月という月は、私の生まれ月であるせいか、特別に愛着が深い。私が小説のなかに夏の終りのことを書く場合が多いのも、そのせいなのだろう。これは私自身が気づかずにいたが、ある時、読者に指摘されて、あ、そうかと思った。
指摘した読者がワタクシではなくて、ちょっと残念(笑)
その後の文章も素敵なので続けよう。
…旧制高校が信州松本だったので、高原の初秋の気分は最高であると、昔からしみじみ感じていた。
…下宿に帰るとすぐ、まだ残暑のきびしい田や畑の中を、三城牧場や崖の湯あたりまで散歩した。畑は、棚に絡んだ胡瓜や南瓜やトマトなどが、いかにも一夏の太陽に飽食したようにぐったりと疲れて、乾いた葉の端が縮んで黄ばみ出していた。遠い山脈は鋼青色に連なり、乗鞍岳も常念岳も夏と変らぬ鋭い稜線を見せていたが、唐黍畑を吹く風は、さらさらと葉を鳴らし、もう秋がきていることを知らせた。
私はそんな散歩の折、長塚節の歌集をポケットから出して繰り返し読んだ。
白埴の甕こそよけれ霧ながら朝は冷たき水汲みにけり
とか
馬追虫の髭のそよろに来る秋はまなこを閉ぢて想ひみるべし
などという歌を口ずさむと、いまも初秋の高原の風が、若い時のままに、心の中を過ぎていくような気がする。季節の中に生きている幸せが胸の中に脹れあがるのだ。(「季節の中に生きること」より)
24
夕焼け雲
2つの団体の事務局を担当しているのですが、この時期、急にバタバタ。
難題もあり、午後から2つの会議。トシのせいか(笑)、軽い疲労感を覚えながら、自転車で帰路につきました。
と、日没後の空があまりにもきれいで!
見上げながらペダルを踏んだのでした。注意! 注意! しながらね(笑)
空を見ているだけで、少し落ち込んだ気分が晴れていくようでした。些末なことに思われて、ケセラセラ。
撮りたいと思いながら、自転車をとめてカメラを出す気力がわかなくて…。今思うと残念、無念。
帰り着いてやっと1枚。

自転車を走らせながら仰いだ空は、まだ淡い水色が残り、様々な形の雲がほんのりピンク色に染まりながら浮かんで、ほんとうにやさしい雰囲気だったんですよ。ものの数分で色調が驚くほど変化しますね。
西の窓から

↑18:12
食事の準備が整っていて感謝、感謝。
ノンアルビールだけ、買って帰りました(笑)。PANDORAさんに教えていただいた、ゼロイチ。

難題もあり、午後から2つの会議。トシのせいか(笑)、軽い疲労感を覚えながら、自転車で帰路につきました。
と、日没後の空があまりにもきれいで!
見上げながらペダルを踏んだのでした。注意! 注意! しながらね(笑)
空を見ているだけで、少し落ち込んだ気分が晴れていくようでした。些末なことに思われて、ケセラセラ。
撮りたいと思いながら、自転車をとめてカメラを出す気力がわかなくて…。今思うと残念、無念。
帰り着いてやっと1枚。

自転車を走らせながら仰いだ空は、まだ淡い水色が残り、様々な形の雲がほんのりピンク色に染まりながら浮かんで、ほんとうにやさしい雰囲気だったんですよ。ものの数分で色調が驚くほど変化しますね。
西の窓から

↑18:12
食事の準備が整っていて感謝、感謝。
ノンアルビールだけ、買って帰りました(笑)。PANDORAさんに教えていただいた、ゼロイチ。

23
『銀杏散りやまず』から
9月22日、夫が退院して、ちょうど1か月になります。近況報告をば。
最近、食材の買物は、夫が1人で行くようになりました(重たい調味料や牛乳、お酒の類はワタクシが自転車で)。
夫は買物してから帰りはバスを利用するのですが、乗る時に電話がかかります。ワタクシはそれを受けて最寄りのバス停まで自転車で走り、荷物を貰い受け、お先に~。
というスタイルに。一歩前進、しましたよね(笑)
最初は、先に帰ったものの、ちょっと心配で、外で待っていたのですが、なかなか姿が現れません。何かあった? 倒れていたりしてへんやろか…
待ち続けていたら、別の方向に姿が見えてホッ。

リハビリのため遠回りして歩いていたのでした。それなら、バスじゃなくて帰りも歩いたらと思われるかもしれませんが、それはまだちょっと距離が長いようなんです。退院してすぐの頃、いきなり往復3.5kmほど歩いたら、腰が痛くなったようで。
その後、検診に行った総合病院で「歩き過ぎはマイナスです。腰が痛くなるほど歩いてはいけません」と言われたのでした。ちょっとずつ距離を伸ばすのが大事なんですね。

↑まだまだ猛暑続きの9月14日のこと。誰も歩いていない時間帯。
いやはや、努力しているなあと、ちょっと胸が熱くなったのでした。
たまたま、『銀杏散りやまず』(辻邦生)を再読しかけて、以前はスッと読んでいた下りで立ち止まり、何度も確認してしまいました。
『銀杏散りやまず』というのは、お父様の死をきっかけにして書かれたもので、辻邦生の他の作品とは大きく異なります。

父の死を直接の契機として、親子二代にわたり、それぞれの事情から、長らく忌避し、逃亡し続けてきた過去と故郷をふたたび見出すまでの現実の記録である。執筆中に起こった辻家古文書発見の経緯やその内容に至るまで、ほぼそのままに書かれている。(『「たえず書く人」辻邦生と暮らして』(辻佐保子)より)
『銀杏散りやまず』が「新潮」で連載が始まったのは、お父様の四十九日法要を終えて間もなくだったそうです。
私は、自分のことにかまけてゆっくり耳を傾けることもしなかった事柄を、遅まきながら、もう一度聞いてみたいと考えた。父がよく話した甲州について、納得ゆくまで調べ、父が心に描いたものの本当の姿を私もじっくり眺め、父が笑ったものを笑い、泣いたものに泣こうと考えたのであった。「(『銀杏散り止まず』歴史紀行」より)
日記、ルポ、旅行記の趣もある、いわばノンフィクション?
最初に、お父さんが脳溢血で倒れたことが語られます。
意識がない状態で救急病院に運ばれるのですが、翌日、奇跡的に回復。3週間足らずで退院。
しかし、幾分発音は不明瞭であり、手足に軽い麻痺が残った。
他の部分は日に日に健康なのに、この手足の麻痺は気の毒だった。まだ普通の人と同じ速度で歩けるよ、といつも得意になっていた老人が、よちよち小またで、杖を頼りに歩かなければならない姿は、見ていて、気の毒だけでは済まされない気持だった。
辻邦生のお父さんは琵琶弾奏家でした。
手足が麻痺してから、いちばん気の毒だったのは、琵琶が昔のように弾けなくなったことだった。父は薩摩琵琶を六十年弾きつづけ、そのことで叙勲までされていた。琵琶は父の生命であり…
琵琶さへ弾いていれば、いかに貧乏でもまったく痛痒を感じないーそんな様子が見てとれた。
…
私はある日、動かなくなった手を激しく泣きながら打っている父を見て、部屋に入れなくなったことがある。
…
この身体の麻痺と戦う父の努力は何とも物凄いものだった。父は晩年にはいっそう柔和になった顔しか見せなかったが、むろん内心はそれでおさまるようなものではなかったろう。母の話によって、父が杖にすがってよちよち歩きながら、近所の散歩をはじめたことを知った。手の動きを元に戻すために、握ったり振ったりする訓練もしていた。
…
私は母の話を聞いてあれこれ考えたが、結局、父がしたいようにさせるしかないと思った。父は毎日散歩し、よちよち小刻みに歩きながらすこしずつその距離をのばしていた。
…
父の恢復は遅々としていたが、もはや歩き方はよちよちではなかった。琵琶のほうも弾き方がしっかりしてきた。
そうして、米寿を祝う琵琶弾奏会が国立小劇場で開かれるまでになった、ということです。
夫とは原因も後遺症も違いますが、いや、もっと重症に思えるお父様が、毎日の努力によって回復されていった様子を読んで、驚きつつも、希望を見出すのです。
こんなふうに辻邦生を読んだのは初めてかも(笑)。
それにしても、お父様が病を克服して長寿を全うされたというのに、息子が73歳という若さで逝ってしまうなんて。
最近、食材の買物は、夫が1人で行くようになりました(重たい調味料や牛乳、お酒の類はワタクシが自転車で)。
夫は買物してから帰りはバスを利用するのですが、乗る時に電話がかかります。ワタクシはそれを受けて最寄りのバス停まで自転車で走り、荷物を貰い受け、お先に~。
というスタイルに。一歩前進、しましたよね(笑)
最初は、先に帰ったものの、ちょっと心配で、外で待っていたのですが、なかなか姿が現れません。何かあった? 倒れていたりしてへんやろか…
待ち続けていたら、別の方向に姿が見えてホッ。

リハビリのため遠回りして歩いていたのでした。それなら、バスじゃなくて帰りも歩いたらと思われるかもしれませんが、それはまだちょっと距離が長いようなんです。退院してすぐの頃、いきなり往復3.5kmほど歩いたら、腰が痛くなったようで。
その後、検診に行った総合病院で「歩き過ぎはマイナスです。腰が痛くなるほど歩いてはいけません」と言われたのでした。ちょっとずつ距離を伸ばすのが大事なんですね。

↑まだまだ猛暑続きの9月14日のこと。誰も歩いていない時間帯。
いやはや、努力しているなあと、ちょっと胸が熱くなったのでした。
たまたま、『銀杏散りやまず』(辻邦生)を再読しかけて、以前はスッと読んでいた下りで立ち止まり、何度も確認してしまいました。
『銀杏散りやまず』というのは、お父様の死をきっかけにして書かれたもので、辻邦生の他の作品とは大きく異なります。

父の死を直接の契機として、親子二代にわたり、それぞれの事情から、長らく忌避し、逃亡し続けてきた過去と故郷をふたたび見出すまでの現実の記録である。執筆中に起こった辻家古文書発見の経緯やその内容に至るまで、ほぼそのままに書かれている。(『「たえず書く人」辻邦生と暮らして』(辻佐保子)より)
『銀杏散りやまず』が「新潮」で連載が始まったのは、お父様の四十九日法要を終えて間もなくだったそうです。
私は、自分のことにかまけてゆっくり耳を傾けることもしなかった事柄を、遅まきながら、もう一度聞いてみたいと考えた。父がよく話した甲州について、納得ゆくまで調べ、父が心に描いたものの本当の姿を私もじっくり眺め、父が笑ったものを笑い、泣いたものに泣こうと考えたのであった。「(『銀杏散り止まず』歴史紀行」より)
日記、ルポ、旅行記の趣もある、いわばノンフィクション?
最初に、お父さんが脳溢血で倒れたことが語られます。
意識がない状態で救急病院に運ばれるのですが、翌日、奇跡的に回復。3週間足らずで退院。
しかし、幾分発音は不明瞭であり、手足に軽い麻痺が残った。
他の部分は日に日に健康なのに、この手足の麻痺は気の毒だった。まだ普通の人と同じ速度で歩けるよ、といつも得意になっていた老人が、よちよち小またで、杖を頼りに歩かなければならない姿は、見ていて、気の毒だけでは済まされない気持だった。
辻邦生のお父さんは琵琶弾奏家でした。
手足が麻痺してから、いちばん気の毒だったのは、琵琶が昔のように弾けなくなったことだった。父は薩摩琵琶を六十年弾きつづけ、そのことで叙勲までされていた。琵琶は父の生命であり…
琵琶さへ弾いていれば、いかに貧乏でもまったく痛痒を感じないーそんな様子が見てとれた。
…
私はある日、動かなくなった手を激しく泣きながら打っている父を見て、部屋に入れなくなったことがある。
…
この身体の麻痺と戦う父の努力は何とも物凄いものだった。父は晩年にはいっそう柔和になった顔しか見せなかったが、むろん内心はそれでおさまるようなものではなかったろう。母の話によって、父が杖にすがってよちよち歩きながら、近所の散歩をはじめたことを知った。手の動きを元に戻すために、握ったり振ったりする訓練もしていた。
…
私は母の話を聞いてあれこれ考えたが、結局、父がしたいようにさせるしかないと思った。父は毎日散歩し、よちよち小刻みに歩きながらすこしずつその距離をのばしていた。
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父の恢復は遅々としていたが、もはや歩き方はよちよちではなかった。琵琶のほうも弾き方がしっかりしてきた。
そうして、米寿を祝う琵琶弾奏会が国立小劇場で開かれるまでになった、ということです。
夫とは原因も後遺症も違いますが、いや、もっと重症に思えるお父様が、毎日の努力によって回復されていった様子を読んで、驚きつつも、希望を見出すのです。
こんなふうに辻邦生を読んだのは初めてかも(笑)。
それにしても、お父様が病を克服して長寿を全うされたというのに、息子が73歳という若さで逝ってしまうなんて。
22
ノンアルコールビール飲み比べ
夫のリクエストで、このところ、わが家の冷蔵庫には常にノンアルビールが居座る状態となっている。入院中にすっかり慣れたとみえて、このほうがいい、と。
これまでノンアルビールを飲んだことがないワタクシも試してみたら、最初はなんやねんと思ったのに、いつの間にかビールの気がしてきた(笑)
けれども、昨夜、初めてのノンアルを飲んだら、甘くて、気が抜けたサイダーみたい。ああ、これはメーカーによって味がとても違うのだということに気がついたのだった。泡の出方も違うような。
これまで飲んだのは3種類

原料をチェックしてみると(↑左から)
①グリーンズフリー(キリン)
●名称 炭酸飲料
●原材料名 麦芽(外国製造)、大麦、ホップ/炭酸、香料、酸味料、乳化剤
②ドライゼロ(アサヒ)
●名称 炭酸飲料
●原材料名 食物繊維(米国製造又は仏国製造又は国内製造)、大豆ペプチド、ホップ/炭酸、香料、酸味料、カラメル色素、酸化防止剤(ビタミンC)、甘味料(アセスルファムK)
③オールフリー(サントリー)
●名称 炭酸飲料
●原材料名 麦芽(外国製造)、ホップ/炭酸、香料、酸味料、カラメル色素、ビタミンC、苦味料、甘味料、(アセスルファムK)
入っているものはあまり変わらないのに、お味はかなり違う。ブラインドで当てられるぞ(笑)。
どれに重点を置くか、含有量などで変わるんやろね。お値段はいずれも350ml100円くらい。
さて、ワタクシがいちばん気に入ったのはどれでしょうか?(笑)
ネット検索してみると、ノンアルビールって、いっぱい出ているのでビックリ。普段行くスーパーでは上記の3種くらいしか目につかなかったのだが、今度もっとリサーチしてみようっと。
ノンアル制覇してみるか(笑)
これまでノンアルビールを飲んだことがないワタクシも試してみたら、最初はなんやねんと思ったのに、いつの間にかビールの気がしてきた(笑)
けれども、昨夜、初めてのノンアルを飲んだら、甘くて、気が抜けたサイダーみたい。ああ、これはメーカーによって味がとても違うのだということに気がついたのだった。泡の出方も違うような。
これまで飲んだのは3種類

原料をチェックしてみると(↑左から)
①グリーンズフリー(キリン)
●名称 炭酸飲料
●原材料名 麦芽(外国製造)、大麦、ホップ/炭酸、香料、酸味料、乳化剤
②ドライゼロ(アサヒ)
●名称 炭酸飲料
●原材料名 食物繊維(米国製造又は仏国製造又は国内製造)、大豆ペプチド、ホップ/炭酸、香料、酸味料、カラメル色素、酸化防止剤(ビタミンC)、甘味料(アセスルファムK)
③オールフリー(サントリー)
●名称 炭酸飲料
●原材料名 麦芽(外国製造)、ホップ/炭酸、香料、酸味料、カラメル色素、ビタミンC、苦味料、甘味料、(アセスルファムK)
入っているものはあまり変わらないのに、お味はかなり違う。ブラインドで当てられるぞ(笑)。
どれに重点を置くか、含有量などで変わるんやろね。お値段はいずれも350ml100円くらい。
さて、ワタクシがいちばん気に入ったのはどれでしょうか?(笑)
ネット検索してみると、ノンアルビールって、いっぱい出ているのでビックリ。普段行くスーパーでは上記の3種くらいしか目につかなかったのだが、今度もっとリサーチしてみようっと。
ノンアル制覇してみるか(笑)
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