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かぎろひNOW

悠久の奈良大和路を一歩ずつ  風景、もの、人…との出会いを楽しみながら

〈自然〉と〈人生〉と 

完全復活を確信。お酒もうまい(笑)

久しぶりに、風を切って自転車を走らせた。1か月近くも引きこもっていたせいか、冷たい風を受けるのもうれしい。
肺炎のときは、胸いっぱいに空気を吸うことさえできなかった。

ペダルを踏めるシアワセを感じながら、昨日(2月1日)、奈良公園バスターミナルレクチャホールで毎月第一土曜日に開かれている、保山耕一さんの作品上映会へ行った。

すばらしい内容については鹿鳴人さんのブログをどうぞ⇒


鹿鳴人さんも書かれているが、「龍王ヶ淵」(宇陀市)の雪の映像と音楽に魅了された。
その後の保山さんの話にも感銘。

200201保山さん


「こんな雪の日、寒さの中で1日撮影して大丈夫ですか」と、身体を心配される方からよく言われるのだとか。
保山さんは
「こんな雪の中で撮影できている!という喜びが大きいんです」と言われた。真夏に汗をかきながら、暑いけれど、それもうれしいことだと。

おそらく、死の淵をのぞいたからこそ、わき上がる思いなのだろう。
比較できるはずもないが、病の後の風の冷たさにシアワセを感じた者として、ほんの少し共感できた、と言っていいかなあ。

そうして、あの映像はやはり保山さんにしか撮れないものだと改めて思うのだった。


白けたり無感動だったりするのは、実は、この一回きりの、有限な、貴重な〈生〉というものがまったく意識から欠落し、忘却させられているためではないのか。一度生死の境をさ迷って危うく一命をとりとめた人は〈生〉の有難さをしみじみと噛みしめる。砂漠で渇きに苦しんだ人は、水のうまさを身にしみて知っている。飢えた人は一碗の米に涙する。そこには〈白け〉も〈無感動〉も入りこむ余地がない。生きていることの不思議さ、有難さが、身体の奥から、疑いない確実なものとして湧き上る。水があること、米があること、空気があることの有難さが身のうちを貫いてゆく。

私は、この単純な〈生〉の事実がすべての基準であると確信できた。これが人間であることの根源の座標軸であり、これだけは狂わしてはならず、見失ってはならない、と思った。ちょうど物を落とせば、地面に落下するように、〈生〉の不思議さ、有難さをつねにいきいきと感じてゆくことーそれがどんな高級で複雑な生活をしていても、はっきりと見えていないと、その生活は狂ってくる。現代はこうした自明な〈生〉の座標軸をたえず見失わせるように働きかける。たとえば冬の寒さを感じさせない全館暖房式の生活がそうである。天候を感じさせない地下の商店街がそうである。季節に無関係に並んでいるパックされた野菜や果物がそうである。たしかにそれは一見快適な生を約束するように見える。しかし〈生〉の根源の座標軸を見失わせるという意味では、それは快適どころか、むしろ〈生〉の敵対物といわなくてはならない。

私が自然のなかに戻ることに今までにない喜びを感じるようになったのは、それがこうした〈生〉の根源の座標軸をくっきりと描いてみせてくれるからなのだ。つまり冬には凍りつく空気のなかで薪の火を燃やすこと、葉の落ちつくした森を、白い息を吐き吐き歩くこと、また春の山道にふきのとうを捜し、それを自分の手で料理すること、夏の峠を汗みずくになって越えること、眩しい入道雲を仰ぐこと、芒の穂の光る秋の高原に風が渡るのを感じること、鳥たちが礫のように空に群れ飛ぶのを見ることーこうしたことは、いわば渇いた人が水のおいしさをごくごく味わうように、魂の渇きのなかに、一種の甘美な味わいとなって流れ込んでくるものなのだ。

『風と樹木と鳥の声』より「〈自然〉と〈人生〉と」辻邦生

200202風邪と樹木と鳥の声
〈エッセイ・おとなの時間〉昭和61.4.20発行〈新潮社〉




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Posted on 2020/02/02 Sun. 21:36 [edit]

category: 辻邦生

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