かぎろひNOW
悠久の奈良大和路を一歩ずつ 風景、もの、人…との出会いを楽しみながら
東大寺東塔院跡 現地説明会
11月21日、東大寺東塔院跡発掘調査の現地説明会へ。
11時に近鉄奈良駅近くで別件約束があり、10時からの現説ではキビシイかな、でも行きたい、もしかしたら前倒しで開始される可能性もありやな、と勝手に願いつつ、現地に9時到着。
願いはピンポーン、30分早く始まりました。

調査は5か年計画で進められているとのことですが、今回の成果はなんといっても鎌倉時代の塔の基壇が確認されたことでしょう。南東部と北側に、奈良時代の痕跡も。奈良時代の基壇は24m、鎌倉時代には外側に1.5m拡張されて27mとなったことがわかりました。

盛り土の中には焼土が混じり、その部分には奈良時代の瓦が確認できたそうで、平重衡による焼き討ち時のものと考えられるとか。
心礎も礎石も抜き取られていて残っていませんが、大きいものであったことがその穴の状態から感じられます。


中央区遺構図(配布資料より。クリックで拡大)

抜取穴の並び方から、塔の柱の配置や柱間の広さなどが浮かび上がりました。
中央間が20尺(約6m)、両脇間が18尺(約5.4m)。
これは東大寺南大門の柱間と同じ寸法とか。現説の帰りに撮影。

想像力を駆使して、七重塔の大きさ、高さを描いてみるのですが・・・うーむ。
天沼俊一氏が復元された七重塔の模型が大仏殿内にありますから参考にしてください、というお話があったのですが、もう時間がありません。それで、以前に撮った写真を探してみましたよ(2012.1.7撮影。クリックでもう少し大きくなります)。

東塔院跡を取り囲むように立つ銀杏の何本かは、この日のために葉を散らさずに待っていてくれたかのような風情。
見守るような姿がなんとも頼もしく、すばらしくて、ファインダーをのぞくたびに、「アンタが主役!」とシャッターをおしていました(笑)

それにしても、心礎や礎石はいったいどこへ持ち去られたのでしょう?
明治の廃仏毀釈以降に抜き取られたようですが、気になりません?
関係者はその行方に、ある程度の見当をつけられているのでは?
で、こそっとお尋ねしてみましたよ。
1つの可能性としては、東塔跡からちょっと西にある石碑の台座、とか。
帰りに立ち寄ってみました。
これですね。

近づいてみると、おお!


11月21日現地説明会配布資料

↓クリック(2回)で拡大します。


11時に近鉄奈良駅近くで別件約束があり、10時からの現説ではキビシイかな、でも行きたい、もしかしたら前倒しで開始される可能性もありやな、と勝手に願いつつ、現地に9時到着。
願いはピンポーン、30分早く始まりました。

調査は5か年計画で進められているとのことですが、今回の成果はなんといっても鎌倉時代の塔の基壇が確認されたことでしょう。南東部と北側に、奈良時代の痕跡も。奈良時代の基壇は24m、鎌倉時代には外側に1.5m拡張されて27mとなったことがわかりました。

盛り土の中には焼土が混じり、その部分には奈良時代の瓦が確認できたそうで、平重衡による焼き討ち時のものと考えられるとか。
心礎も礎石も抜き取られていて残っていませんが、大きいものであったことがその穴の状態から感じられます。


中央区遺構図(配布資料より。クリックで拡大)

抜取穴の並び方から、塔の柱の配置や柱間の広さなどが浮かび上がりました。
中央間が20尺(約6m)、両脇間が18尺(約5.4m)。
これは東大寺南大門の柱間と同じ寸法とか。現説の帰りに撮影。

想像力を駆使して、七重塔の大きさ、高さを描いてみるのですが・・・うーむ。
天沼俊一氏が復元された七重塔の模型が大仏殿内にありますから参考にしてください、というお話があったのですが、もう時間がありません。それで、以前に撮った写真を探してみましたよ(2012.1.7撮影。クリックでもう少し大きくなります)。

東塔院跡を取り囲むように立つ銀杏の何本かは、この日のために葉を散らさずに待っていてくれたかのような風情。
見守るような姿がなんとも頼もしく、すばらしくて、ファインダーをのぞくたびに、「アンタが主役!」とシャッターをおしていました(笑)

それにしても、心礎や礎石はいったいどこへ持ち去られたのでしょう?
明治の廃仏毀釈以降に抜き取られたようですが、気になりません?
関係者はその行方に、ある程度の見当をつけられているのでは?
で、こそっとお尋ねしてみましたよ。
1つの可能性としては、東塔跡からちょっと西にある石碑の台座、とか。
帰りに立ち寄ってみました。
これですね。

近づいてみると、おお!


11月21日現地説明会配布資料

↓クリック(2回)で拡大します。


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