かぎろひNOW
悠久の奈良大和路を一歩ずつ 風景、もの、人…との出会いを楽しみながら
乾 草洞の茶碗
2月21日、西の京で、久しぶりに、薬師寺の東側の集落を訪ねてみる気になった。
ここは、以前よく通った懐かしい地。
車の通りからちょっと入っただけなのに、信じられないほど静かで、のどかな空気が満ちている。
集落から、薬師寺の双塔はこんなふうに見える。

その昔、ん~と、旧のかぎろひ誌の頃だから20数年前になるカナ。
西の京の取材をしていて、この地に住まわれている日本画家と知り合った。
それが、乾勝二(いぬいかつじ)さん。
だいぶ前に亡くなられたが、何度も、この画家の書斎で、いろいろなお話をうかがった。
乾さんは、少年時代から絵筆を持ち、18歳で上京して、あの不染鉄(ふせんてつ)の指導を受けている。たしかに作風はとてもよく似ていたと思う。

山々に抱かれた村、茅葺きの家、小川のせせらぎ…胸にキュッとくるような懐かしい風景を、それは繊細な筆遣いで描かれた。涙がでそうなほどの郷愁が漂う。
京都絵画専門学校(京都芸大)の日本画科では、上村松篁に師事して研鑽をつんだ。
しかし、ワタクシが出会った頃の乾さんは、展覧会へ出品することもなく、ひっそりと暮らしているように見えた。描きたいものだけを描くとおっしゃっていた。
京都絵画専門学校卒業の翌年、乾さんは出征する。ソロモン群島やラバウルなどの激戦で九死に一生を得て帰国したときは、「入選して有名な絵かき」にという以前の野心は全く消えていたという。
10年の歳月をかけて「大和百景」を完成された頃にワタクシはお会いした。全長30mにも及ぶふすま絵だ。
ふすま絵の全貌を見ることは叶わなかったが、どこかのお宅に今もそれは生きているはず。
依頼されたのはどこの方か聞いておけばよかったと、それがちょっと悔やまれる。見てみたいなあ。
また、乾さんは陶芸家でもあった。号は草洞。
ワタクシ、乾さんから抹茶茶碗を頂戴している。
そのうちの1つは油滴天目!

とても上品なすぐれもので、たま~にお抹茶を飲む以外は大事にしまってある。
乾さんは一見、気むずかしさや頑固さを感じさせる芸術家という風貌だったが、描かれる絵や焼き物には温もりや優しさがあふれていた。
ワタクシいつも突然ふらりとお訪ねしたが、1度たりとも不在だったことはなく、また不都合だと断られたことがない。実家に帰ったような感じで、厚かましくたいてい長々とお邪魔したっけ。
乾さんご自身がおいしいお煎茶を淹れてくださり、ちょうど今頃の時期にはかき餅を焼いてくれた。
そして、帰り際には「好きなものを持って行き」と、お茶碗を包んでくれたりしたのだ。
……………………………………
2月21日、乾さんの家があった所へ行ってみると、そこはお寺になっていた。
んん?
隣家のお庭に人の気配がしたので、「すみませ~ん、ちょっと教えてください」と声をかけた。
「ここは前からお寺でした?」
「そうですよ」
「えっ、以前、乾さんがお住まいじゃありませんでした?」
「あっ、乾さん、ご存じですか?」
それから、乾家へよくお邪魔したこと、お抹茶茶碗を持っていることなどを話すと、
「ちょっと入って」
「見てほしいわ」
と、ワタクシを招き入れて、乾さんの作られたお茶碗を出してこられた。


私の持っているものとはいささか趣は違ったが、まぎれもなく乾さんの干支茶碗だった。
それからしばらく乾さんの思い出話になった。
お隣のKさんは大阪から越してこられたとか。古い土地に来て不安な思いでいたのを気遣ってのことか、乾さんは朝、窓越しによく声をかけてくださったのだという。「可愛がっていただきました」とKさんは遠い目でおっしゃった。
ワタクシは乾さんの思い出を共有できたことがとてもうれしくて、Kさんにも初対面とは思えない親しみを感じていた。
すろと、Kさん「1つ持って帰って」とおっしゃるのでビックリ。
とんでもない。乾さんのお茶碗のすごさも良さも理解しているがゆえに、いただくわけにはいかない。しかも、初対面なのだ。
ワタクシは、自分も乾さんのお茶碗を3つも持っていることを話し、また見せていただきに来ます、と丁重にご辞退申し上げた。
ところが、Kさん「持ち主が言ってるんですよ。乾さんも喜ぶと思います。ぜひもらってください!」と譲らない。
信じられないことだが、ワタクシは貴重なお茶碗をいただいたのである。
それから後は、もうどこへも行く気がなくなり、少々興奮ぎみに、お茶碗を大事に大事に持って帰った。
ワタクシの持っているお茶碗と、いただいてきたものとのご対面。

いただいたのは、向かっていちばん左。
人生、ほんとうに、どんな出会いがあるかわからないものだなあと、つくづく思ったことだった。
まさに乾さんが引き合わせてくれたご縁としか言いようがない。
また、お訪ねしよう。
※乾さんの写真は、かぎろひ誌掲載のもの。描画中の写真は故小林道夫氏の撮影。

車の通りからちょっと入っただけなのに、信じられないほど静かで、のどかな空気が満ちている。
集落から、薬師寺の双塔はこんなふうに見える。

その昔、ん~と、旧のかぎろひ誌の頃だから20数年前になるカナ。
西の京の取材をしていて、この地に住まわれている日本画家と知り合った。
それが、乾勝二(いぬいかつじ)さん。
だいぶ前に亡くなられたが、何度も、この画家の書斎で、いろいろなお話をうかがった。
乾さんは、少年時代から絵筆を持ち、18歳で上京して、あの不染鉄(ふせんてつ)の指導を受けている。たしかに作風はとてもよく似ていたと思う。

山々に抱かれた村、茅葺きの家、小川のせせらぎ…胸にキュッとくるような懐かしい風景を、それは繊細な筆遣いで描かれた。涙がでそうなほどの郷愁が漂う。
京都絵画専門学校(京都芸大)の日本画科では、上村松篁に師事して研鑽をつんだ。
しかし、ワタクシが出会った頃の乾さんは、展覧会へ出品することもなく、ひっそりと暮らしているように見えた。描きたいものだけを描くとおっしゃっていた。
京都絵画専門学校卒業の翌年、乾さんは出征する。ソロモン群島やラバウルなどの激戦で九死に一生を得て帰国したときは、「入選して有名な絵かき」にという以前の野心は全く消えていたという。

ふすま絵の全貌を見ることは叶わなかったが、どこかのお宅に今もそれは生きているはず。
依頼されたのはどこの方か聞いておけばよかったと、それがちょっと悔やまれる。見てみたいなあ。

ワタクシ、乾さんから抹茶茶碗を頂戴している。
そのうちの1つは油滴天目!

とても上品なすぐれもので、たま~にお抹茶を飲む以外は大事にしまってある。
乾さんは一見、気むずかしさや頑固さを感じさせる芸術家という風貌だったが、描かれる絵や焼き物には温もりや優しさがあふれていた。
ワタクシいつも突然ふらりとお訪ねしたが、1度たりとも不在だったことはなく、また不都合だと断られたことがない。実家に帰ったような感じで、厚かましくたいてい長々とお邪魔したっけ。
乾さんご自身がおいしいお煎茶を淹れてくださり、ちょうど今頃の時期にはかき餅を焼いてくれた。
そして、帰り際には「好きなものを持って行き」と、お茶碗を包んでくれたりしたのだ。
……………………………………
2月21日、乾さんの家があった所へ行ってみると、そこはお寺になっていた。
んん?
隣家のお庭に人の気配がしたので、「すみませ~ん、ちょっと教えてください」と声をかけた。
「ここは前からお寺でした?」
「そうですよ」
「えっ、以前、乾さんがお住まいじゃありませんでした?」
「あっ、乾さん、ご存じですか?」
それから、乾家へよくお邪魔したこと、お抹茶茶碗を持っていることなどを話すと、
「ちょっと入って」
「見てほしいわ」
と、ワタクシを招き入れて、乾さんの作られたお茶碗を出してこられた。


私の持っているものとはいささか趣は違ったが、まぎれもなく乾さんの干支茶碗だった。
それからしばらく乾さんの思い出話になった。
お隣のKさんは大阪から越してこられたとか。古い土地に来て不安な思いでいたのを気遣ってのことか、乾さんは朝、窓越しによく声をかけてくださったのだという。「可愛がっていただきました」とKさんは遠い目でおっしゃった。
ワタクシは乾さんの思い出を共有できたことがとてもうれしくて、Kさんにも初対面とは思えない親しみを感じていた。
すろと、Kさん「1つ持って帰って」とおっしゃるのでビックリ。
とんでもない。乾さんのお茶碗のすごさも良さも理解しているがゆえに、いただくわけにはいかない。しかも、初対面なのだ。
ワタクシは、自分も乾さんのお茶碗を3つも持っていることを話し、また見せていただきに来ます、と丁重にご辞退申し上げた。
ところが、Kさん「持ち主が言ってるんですよ。乾さんも喜ぶと思います。ぜひもらってください!」と譲らない。
信じられないことだが、ワタクシは貴重なお茶碗をいただいたのである。
それから後は、もうどこへも行く気がなくなり、少々興奮ぎみに、お茶碗を大事に大事に持って帰った。
ワタクシの持っているお茶碗と、いただいてきたものとのご対面。

いただいたのは、向かっていちばん左。
人生、ほんとうに、どんな出会いがあるかわからないものだなあと、つくづく思ったことだった。
まさに乾さんが引き合わせてくれたご縁としか言いようがない。
また、お訪ねしよう。
※乾さんの写真は、かぎろひ誌掲載のもの。描画中の写真は故小林道夫氏の撮影。
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