かぎろひNOW
悠久の奈良大和路を一歩ずつ 風景、もの、人…との出会いを楽しみながら
追悼 円亀山人さん
インターネットで掲示板やブログサービスなどを提供してきたteacupが、8月1日ですべてのサービスを終了されます。
長年にわたりご愛顧いただきましたteacup.ですが、2022年8月1日(月)13:00をもちまして、サービスを終了させていただくこととなりました。
teacup.サービス終了の詳細につきましては、こちらをご確認ください。
【重要なお知らせ】teacup. byGMOのサービス終了につきまして
https://www.teacup.com/information/view?id=249
ワタクシは20年ほど前から「掲示板」をお借りしていて、「かぎろひの大和路」HPにくっつけています。⇒★
ここ数年は、書き込みが激減していましたので、サービス終了もむべなるかな、と納得する次第です。
しかし、掲示板も一時はとても盛り上がったんですよ。読者や友人知人から毎日のように書き込みがあり、管理人が放っておいても話がはずんでいることも。
そのなかでも、中心的な存在だったのが円亀山人さん。
この3月にお亡くなりになりました。もっと早い時期に追悼文を書かなければいけなかったのですが、悲しいことはやはり筆が重くなります。遅くなりましたが、これまでのご厚情に感謝してワタクシなりの追悼をしたいと思います。
円亀さんは『かぎろひの大和路』の旧刊からの読者ですから、40年のおつきあいになります。いつも発行後には、ていねいな感想を下さり、とても励みになっていました。夫も自分の「ひとり同人誌」を送るたびに、自分の思いに寄り添ってくれるようなお手紙をいただいて、静かに喜んでいるようでした。
今回、円亀さんのご逝去を知ったのは、夫が入院したばかりの頃、円亀さんにお手紙を書いたのがきっかけです。虫の知らせというのでしょうか。
すると、奥様から「まだ誰にも知らせていないのですが、お手紙をいただいたので」とお電話がかかり、お亡くなりになったことを知ったのでした。
円亀さんには、実際に2度お会いしました。
最初は、ワタクシの関わっている「結の会」主催の「お水取り展鑑賞とお松明」に参加してくださったこと。第一回のときです。平成19年(2007)ですから、15年前。ワタクシまだブログもやっておらず、掲示板で発信したところ、円亀さんが友人たちに奈良で集まろうじゃないかと声をかけてくださり、全国から20人ほどの参加表明がありビックリ。このときは、ワタクシの友人のぴいちゃん夫妻も合流して、お松明終了後は居酒屋で盛り上がりました。写真が探せなくて残念。
2度目は、甥っ子さんが、京都大学グリークラブOB会の指揮者をされているということで、チケットをいただきました。掲示板仲間の雫さんご夫婦も出席。終了後、ビアホールで楽しいひとときを過ごしましたね。
円亀さんからは、京大グリークラブのCDなどもいただきました。

円亀さんにいただいた、これも宝物

大仏殿昭和大修理落慶記念として臨時創刊されたもの。ちょうどワタクシが奈良で働き始めた頃で、トップに辻邦生さんの「東大寺幻想」が載っているのに、知らなかったという。
円亀さんは若い頃から文学にうちこんでこられた方で、掲示板に書かれる内容も博識で奥が深く、誰もが尊敬する存在でした。
ある日の円亀さんの書き込み

軍艦島について触れられていますが、この中にある詩集というのは

赤山さんは円亀さんの親友で、この詩集の発行についても、ずいぶん尽力されていたと記憶しています。
掲示板に書き込まれた円亀さんの文章から

「故郷」についての複雑な思いが感じられます。
上に紹介した『赤山勇長篇詩集』(1997.11 光陽出版社発行)は、ワタクシにとっては重すぎて難解でもあります。
この詩集のしおりに、円亀さんが思いを寄せています。一部をご紹介します。
…
赤山勇作品は言われるように難解か。オーディオの超低域が実際には人の耳に聴こえにくい空気の振動に過ぎないのに、それが肉体に響き「基音」として上声部の充実した「倍音」を支えているように、彼の詩でも表面では「わからない」場所で、底深く重く分厚いリズムのうねりで「思想」を「想い」を根源的に伝えているのだ。
超低音を気にせず美しいメロディを無意識に聴くように、彼の詩は誰でも「受信」可能な全身の波動を送りつづけているのである。
…
掲示板にも円亀さんの足痕がたくさん残っているので、閉鎖されるのは残念でさみしい限り。10年ぐらい前までならさかのぼることができますので、お時間がありましたら。⇒かぎろひ掲示板
8月1日まで。
円亀山人さん、長い間ほんとうにありがとうございました。
ご冥福をお祈り申し上げます。
長年にわたりご愛顧いただきましたteacup.ですが、2022年8月1日(月)13:00をもちまして、サービスを終了させていただくこととなりました。
teacup.サービス終了の詳細につきましては、こちらをご確認ください。
【重要なお知らせ】teacup. byGMOのサービス終了につきまして
https://www.teacup.com/information/view?id=249
ワタクシは20年ほど前から「掲示板」をお借りしていて、「かぎろひの大和路」HPにくっつけています。⇒★
ここ数年は、書き込みが激減していましたので、サービス終了もむべなるかな、と納得する次第です。
しかし、掲示板も一時はとても盛り上がったんですよ。読者や友人知人から毎日のように書き込みがあり、管理人が放っておいても話がはずんでいることも。
そのなかでも、中心的な存在だったのが円亀山人さん。
この3月にお亡くなりになりました。もっと早い時期に追悼文を書かなければいけなかったのですが、悲しいことはやはり筆が重くなります。遅くなりましたが、これまでのご厚情に感謝してワタクシなりの追悼をしたいと思います。
円亀さんは『かぎろひの大和路』の旧刊からの読者ですから、40年のおつきあいになります。いつも発行後には、ていねいな感想を下さり、とても励みになっていました。夫も自分の「ひとり同人誌」を送るたびに、自分の思いに寄り添ってくれるようなお手紙をいただいて、静かに喜んでいるようでした。
今回、円亀さんのご逝去を知ったのは、夫が入院したばかりの頃、円亀さんにお手紙を書いたのがきっかけです。虫の知らせというのでしょうか。
すると、奥様から「まだ誰にも知らせていないのですが、お手紙をいただいたので」とお電話がかかり、お亡くなりになったことを知ったのでした。
円亀さんには、実際に2度お会いしました。
最初は、ワタクシの関わっている「結の会」主催の「お水取り展鑑賞とお松明」に参加してくださったこと。第一回のときです。平成19年(2007)ですから、15年前。ワタクシまだブログもやっておらず、掲示板で発信したところ、円亀さんが友人たちに奈良で集まろうじゃないかと声をかけてくださり、全国から20人ほどの参加表明がありビックリ。このときは、ワタクシの友人のぴいちゃん夫妻も合流して、お松明終了後は居酒屋で盛り上がりました。写真が探せなくて残念。
2度目は、甥っ子さんが、京都大学グリークラブOB会の指揮者をされているということで、チケットをいただきました。掲示板仲間の雫さんご夫婦も出席。終了後、ビアホールで楽しいひとときを過ごしましたね。
円亀さんからは、京大グリークラブのCDなどもいただきました。

円亀さんにいただいた、これも宝物

大仏殿昭和大修理落慶記念として臨時創刊されたもの。ちょうどワタクシが奈良で働き始めた頃で、トップに辻邦生さんの「東大寺幻想」が載っているのに、知らなかったという。
円亀さんは若い頃から文学にうちこんでこられた方で、掲示板に書かれる内容も博識で奥が深く、誰もが尊敬する存在でした。
ある日の円亀さんの書き込み

軍艦島について触れられていますが、この中にある詩集というのは

赤山さんは円亀さんの親友で、この詩集の発行についても、ずいぶん尽力されていたと記憶しています。
掲示板に書き込まれた円亀さんの文章から

「故郷」についての複雑な思いが感じられます。
上に紹介した『赤山勇長篇詩集』(1997.11 光陽出版社発行)は、ワタクシにとっては重すぎて難解でもあります。
この詩集のしおりに、円亀さんが思いを寄せています。一部をご紹介します。
…
赤山勇作品は言われるように難解か。オーディオの超低域が実際には人の耳に聴こえにくい空気の振動に過ぎないのに、それが肉体に響き「基音」として上声部の充実した「倍音」を支えているように、彼の詩でも表面では「わからない」場所で、底深く重く分厚いリズムのうねりで「思想」を「想い」を根源的に伝えているのだ。
超低音を気にせず美しいメロディを無意識に聴くように、彼の詩は誰でも「受信」可能な全身の波動を送りつづけているのである。
…
掲示板にも円亀さんの足痕がたくさん残っているので、閉鎖されるのは残念でさみしい限り。10年ぐらい前までならさかのぼることができますので、お時間がありましたら。⇒かぎろひ掲示板
8月1日まで。
円亀山人さん、長い間ほんとうにありがとうございました。
ご冥福をお祈り申し上げます。
15
追悼 丹生姫さん
郷里の親友、丹生姫さんを亡くして1か月半が経つ。
いろいろ思い出しては涙する日々だったのだけれど、昨日、藤村さんの追悼文を書いてから、ああやっぱり、私なりのサヨナラをしなくてはと思った次第。
こんな時期なので、お通夜も葬儀も家族だけで行われ、最期のお別れにも行けなかったのだ。
丹生姫さんは、このブログにも何度か登場しているので、あるいは覚えてくださっている方がいるかもしれない。
いちばん反響があったのは、ワタクシが母の形見の帽子を電車に置き忘れ、ま、いいかと、ブログに書いた時のことだ。
9年前のこととはいえ、なかなか記事を見つけられなかったのだが、こそっと最後の「続きを読む」に書いていた(2011.8.24)。⇒★
それを読んだ丹生姫さんがメールをよこしたのだ。
亡き母の片見の帽子 めちゃ気になります 八木駅に探しに行こうと思ってます こう見えても私はそういうものは大事にしたい 気にするタイプ
というわけで、ワタクシが帽子を追っかけないわけにはいかなくなった。顛末は2011.9.3⇒★
彼女に報告とお礼メールを送ったら、叱られた。
古い新しいの問題じゃないんで 思い直してくれて私もハッピーな気分です それから夜の1人歩き絶対やめて下さい これも懐中電灯持ってる持ってないの問題じゃないです 襲われる(婦女暴行に関してはね)ことはないと思いますが金銭目的ということもありますので(お金持ってなかったらよけい逆上します)気つけて下さいよ 今まで病気ひとつしなかったのに熊にやられたとか強盗にやられたなんて新聞に載ったらもうはっきり言って笑い話です ではお気をつけて 私はさっき帰ってきて一服中 夕飯作ります 空き時間あればまた難波ででも会いましょう~
夜の1人歩きについての注意はたぶんこの記事を読んだからやね。これも「続きを読む」で⇒★
忘れ物の記事にはたくさんのコメントをいただいたのだが、なかでも、なららさんの言葉が印象に残った。
ちょっと、涙が出そうになりました・・・
何にって、
かぎろひさんのお人柄にです。すなわちこんな素敵な友情人をお持ちなのは素晴らしい。
おボウシのもどったのもうれしいですが、
こうやって心底心配してくれる友情に乾杯ですね。
URL | *ならら*
ほんとうに、いろいろお世話になるばかりだった…
彼女はずっと前から『かぎろひの大和路』の読者でもあった。「ちょっと難しいけど、かぎろひちゃんが関わっているんだから読むよ」と言って、自分だけではなく、お友達や従姉妹さんにまで広めてくれていたのだ。
「奈良八重桜の会」のイベントにも来てくれたよね。⇒★
「正倉院展」にはまるで目的が呈茶席のように。
一緒に奈良の山に登ったことも大事な思い出になった。
龍王山(2012.5.11)⇒★
二上山(2012.6.29)⇒★
彼女は3年前、末期のすい臓がんという宣告を受けた。余命半年と言われながら、持ち前の明るさでがんばり抜いた。
その間、何度も会えたのは彼女の取り計らいがあったからこそ。カテゴリー「高野山麓から」の最近の記事はほとんど彼女や仲間と一緒だと思う。⇒★
彼女は祈祷を受けるために、時々、大安寺まで車で連れてきてもらっていた。
ある日、1人で電車で行くから会えないかという連絡があり、生駒に住むUくん、下市在住のSちゃんと、奈良県人が迎えるかたちに。実はこの日、Yくんにも声をかけてあった。郷里の集まりにも顔を出すことのないYくんは、おそらく彼女の闘病のことも知らないはず。丹生姫さんはYくんには会っておきたいと言っていたのだ。
Yくんはサプライズ参加。これがとてもウケて、喜んでくれたので、よかった。今思い出しても、ちょっと笑える。

↑大安寺から、ランチは天平倶楽部(⇒★)で(2018.9.26)
丹生姫さんは仲間うちでも中心的な、華やかな存在で、あれほど話術の巧みな人を知らない。
ストレートで、時には毒舌ですらありながら、いつも笑いがあふれた。自身は満身創痍でありながら、弱音を聞いたことがない。というよりもそれすら笑いのネタにするほど。サービス精神が旺盛だったのだろうか。仲間が揃うと、その中心にいて、いつも明るくふるまっていたのだが…。
けれども、今年になってからのラインには
軽度でよかったね
私は一ヶ月肺炎で入院したから今思いだしても震えます
23日は残念です 私は来月は検査や入院が控えてて息子からぼちぼち真剣に治療受けるように言われたのでしばらく賢くします色々思うこともありみんなと会うのは一応、同級生たちと会うのは23日でけじめつけるつもりでした
弱って行く自分をはじめとして見られたくないという気持ちはあります
病気が回復して自分の力で行動出来るようになったら、奈良まで会いに行くよ
待っててね💓
早く良くなってね
LINE交換は頑張ります!
早く良くなってね、というのは、彼女の決めた最後の集まりに、ワタクシ不覚にもインフル→肺炎を発症して行けなかったことをさす。
悔やまれ、そして自身こそ大変な時にも思いやってくれて胸がいたむ。
4月下旬
かぎろいありがとね
もう何から話ていいか分からない状況です
私は今医療看護受けて毎日点滴してもらってます、ナースさんが毎日朝と夕方バイタルチェックに来てくれます
そんな状態なのでたぶんコロナが終息しない限り会うことはないです
麻薬薬毎日抗生剤で免疫力低下してる為自分の部屋から出ていません
ナースさんが防御服着て来てくれてますありがとね
これが最後になってしまった。
丹生姫さん、ほんとうにいろいろありがとうね。お疲れさま。
いろいろ思い出しては涙する日々だったのだけれど、昨日、藤村さんの追悼文を書いてから、ああやっぱり、私なりのサヨナラをしなくてはと思った次第。
こんな時期なので、お通夜も葬儀も家族だけで行われ、最期のお別れにも行けなかったのだ。
丹生姫さんは、このブログにも何度か登場しているので、あるいは覚えてくださっている方がいるかもしれない。
いちばん反響があったのは、ワタクシが母の形見の帽子を電車に置き忘れ、ま、いいかと、ブログに書いた時のことだ。
9年前のこととはいえ、なかなか記事を見つけられなかったのだが、こそっと最後の「続きを読む」に書いていた(2011.8.24)。⇒★
それを読んだ丹生姫さんがメールをよこしたのだ。
亡き母の片見の帽子 めちゃ気になります 八木駅に探しに行こうと思ってます こう見えても私はそういうものは大事にしたい 気にするタイプ
というわけで、ワタクシが帽子を追っかけないわけにはいかなくなった。顛末は2011.9.3⇒★
彼女に報告とお礼メールを送ったら、叱られた。
古い新しいの問題じゃないんで 思い直してくれて私もハッピーな気分です それから夜の1人歩き絶対やめて下さい これも懐中電灯持ってる持ってないの問題じゃないです 襲われる(婦女暴行に関してはね)ことはないと思いますが金銭目的ということもありますので(お金持ってなかったらよけい逆上します)気つけて下さいよ 今まで病気ひとつしなかったのに熊にやられたとか強盗にやられたなんて新聞に載ったらもうはっきり言って笑い話です ではお気をつけて 私はさっき帰ってきて一服中 夕飯作ります 空き時間あればまた難波ででも会いましょう~
夜の1人歩きについての注意はたぶんこの記事を読んだからやね。これも「続きを読む」で⇒★
忘れ物の記事にはたくさんのコメントをいただいたのだが、なかでも、なららさんの言葉が印象に残った。
ちょっと、涙が出そうになりました・・・
何にって、
かぎろひさんのお人柄にです。すなわちこんな素敵な友情人をお持ちなのは素晴らしい。
おボウシのもどったのもうれしいですが、
こうやって心底心配してくれる友情に乾杯ですね。
URL | *ならら*
ほんとうに、いろいろお世話になるばかりだった…
彼女はずっと前から『かぎろひの大和路』の読者でもあった。「ちょっと難しいけど、かぎろひちゃんが関わっているんだから読むよ」と言って、自分だけではなく、お友達や従姉妹さんにまで広めてくれていたのだ。
「奈良八重桜の会」のイベントにも来てくれたよね。⇒★
「正倉院展」にはまるで目的が呈茶席のように。
一緒に奈良の山に登ったことも大事な思い出になった。
龍王山(2012.5.11)⇒★
二上山(2012.6.29)⇒★
彼女は3年前、末期のすい臓がんという宣告を受けた。余命半年と言われながら、持ち前の明るさでがんばり抜いた。
その間、何度も会えたのは彼女の取り計らいがあったからこそ。カテゴリー「高野山麓から」の最近の記事はほとんど彼女や仲間と一緒だと思う。⇒★
彼女は祈祷を受けるために、時々、大安寺まで車で連れてきてもらっていた。
ある日、1人で電車で行くから会えないかという連絡があり、生駒に住むUくん、下市在住のSちゃんと、奈良県人が迎えるかたちに。実はこの日、Yくんにも声をかけてあった。郷里の集まりにも顔を出すことのないYくんは、おそらく彼女の闘病のことも知らないはず。丹生姫さんはYくんには会っておきたいと言っていたのだ。
Yくんはサプライズ参加。これがとてもウケて、喜んでくれたので、よかった。今思い出しても、ちょっと笑える。

↑大安寺から、ランチは天平倶楽部(⇒★)で(2018.9.26)
丹生姫さんは仲間うちでも中心的な、華やかな存在で、あれほど話術の巧みな人を知らない。
ストレートで、時には毒舌ですらありながら、いつも笑いがあふれた。自身は満身創痍でありながら、弱音を聞いたことがない。というよりもそれすら笑いのネタにするほど。サービス精神が旺盛だったのだろうか。仲間が揃うと、その中心にいて、いつも明るくふるまっていたのだが…。
けれども、今年になってからのラインには
軽度でよかったね
私は一ヶ月肺炎で入院したから今思いだしても震えます
23日は残念です 私は来月は検査や入院が控えてて息子からぼちぼち真剣に治療受けるように言われたのでしばらく賢くします色々思うこともありみんなと会うのは一応、同級生たちと会うのは23日でけじめつけるつもりでした
弱って行く自分をはじめとして見られたくないという気持ちはあります
病気が回復して自分の力で行動出来るようになったら、奈良まで会いに行くよ
待っててね💓
早く良くなってね
LINE交換は頑張ります!
早く良くなってね、というのは、彼女の決めた最後の集まりに、ワタクシ不覚にもインフル→肺炎を発症して行けなかったことをさす。
悔やまれ、そして自身こそ大変な時にも思いやってくれて胸がいたむ。
4月下旬
かぎろいありがとね
もう何から話ていいか分からない状況です
私は今医療看護受けて毎日点滴してもらってます、ナースさんが毎日朝と夕方バイタルチェックに来てくれます
そんな状態なのでたぶんコロナが終息しない限り会うことはないです
麻薬薬毎日抗生剤で免疫力低下してる為自分の部屋から出ていません
ナースさんが防御服着て来てくれてますありがとね
これが最後になってしまった。
丹生姫さん、ほんとうにいろいろありがとうね。お疲れさま。
11
追悼 藤村さん
山歩きでよくご一緒していた藤村清彦さんが急逝されたことを知り、ショックを受けている。
つい先日も、「リーダーが山を考えているようです。楽しみにしましょう♪」というメッセージを受け取ったばかりなので、信じられない。
一昨日(7月7日)倒れて救急車で運ばれ、そのまま帰らぬ人となった、ということを娘さんが藤村さんのFBに書きこまれたのだ。
ここに思い出を記して、私なりの、藤村さんとのお別れにしたいと思う。
藤村さんに初めて会ったのは8年前だが、鮮明に記憶に残っている。
糸井神社の秋祭りの日だった。『かぎろひの大和路』(29号⇒★)の取材で、あいにくの雨の中、必死で写真を撮っていた。
拝殿での所作を撮り終えた頃、いきなり声をかけられたのだった「ブログされています?」
「はい」と答えると「かぎろひさん?」と言われてビックリ。「naraclubさんとかぎろひさんのブログは毎日見ていますよ」とのことだった。
ブログにも書いてあった。⇒★

翌年(2013)の9月から「かぎろひ歴史探訪」がスタートすると、藤村さんもすぐに会員になって参加してくださるようになった。
お昼の龍講座のとき、藤村さんはいちばん前に座って大きくうなずきながら聞いてくれるので、喋りやすかった、とセンセ。
2015年からは山歩きの仲間に。
ブログをやっていてよかったと思うのはこんなときだ。ちゃんと記録になっている。
初めてご一緒したのは三郎ヶ岳(2015.5.11)⇒★
布施城跡⇒(2015.8.4)⇒★
二上山(2016.5.6)⇒★
ダイトレ(2016.6.14)⇒★
伊奈佐山(2017.4.5)⇒★
金剛山(2017.6.16)⇒★
大洞山(2017.11.27)⇒★
釈迦ヶ岳(2018.10.30)⇒★
局ヶ岳(2019.4.9)⇒★
後ろ姿しかなくて残念だが、釈迦ヶ岳をめざす藤村さん

局ヶ岳登山で

「かぎろひ歴史探訪」のこともよくFBにアップしてくれていた。
結局、最後のご参加になってしまった4月2日「佐紀佐保路から佐保川沿い桜並木」
藤村さんはその夜にFBにアップ。⇒★

参加された時は必ずFBで報告されていた。
藤村さんのFB⇒★
個人的にメールを交わしたことも多々。
そうそう、「かぎろひの大和路」のおたより欄に掲載させていただいたこともあった。
「載せていいですか」とお聞きしたら「どうぞどうぞ」と快諾いただいたのに、「まほろばソムリエとは書かないでね」と言われたことを思い出す。博識なのに、謙虚なお人柄だった。
紹介しておきますね。かぎろひ誌30号掲載。もう5年も前になる。
奈良は季節ごと、天気によって違った風景が見られるので同じ所でも常に刺激があります。
お昼休みには、参加者の皆さんからブドウやお菓子をいただくなど和気あいあいとした雰囲気で盛り上がりました。
最後に今西酒造さんを入れられたのはヒットでしたね。先代さんが亡くなられたので、皆で応援したいと思っていたのでいい機会でした。
たくさんの方が試飲?に参加されお互いの垣根がとれてよかったですね。日本酒の効用です。
奈良へ行くたびに、JR奈良駅2階で「風の森」や「篠峯」などを買っていましたが「三諸杉」がこれほどいいお酒とは知りませんでした。いいお酒を教えていただいてありがたかったです。
関西でも、日本酒を銘柄で飲むようになりいいお酒を探す楽しみができてきました。
お土産に買ったのを飲むのが楽しみです。
いい経験をさせていただき本当にありがとうございました。
いろいろ先回りされてのお手配お疲れさまでございました。
また一人ひとりに写真などを下さり感激です。
そうそう、油絵も描かれていたはず。
年賀状はいつも自作の版画だった。

印刷ハガキが多くなるなかで、数少ない手書き、しかも作品付きで、毎年楽しみにしている年賀状のひとつだった。
もういただけないと思うと、さみしさがつのる。
藤村さん、ほんとうにありがとうございました。
心からご冥福をお祈り申し上げます。
つい先日も、「リーダーが山を考えているようです。楽しみにしましょう♪」というメッセージを受け取ったばかりなので、信じられない。
一昨日(7月7日)倒れて救急車で運ばれ、そのまま帰らぬ人となった、ということを娘さんが藤村さんのFBに書きこまれたのだ。
ここに思い出を記して、私なりの、藤村さんとのお別れにしたいと思う。
藤村さんに初めて会ったのは8年前だが、鮮明に記憶に残っている。
糸井神社の秋祭りの日だった。『かぎろひの大和路』(29号⇒★)の取材で、あいにくの雨の中、必死で写真を撮っていた。
拝殿での所作を撮り終えた頃、いきなり声をかけられたのだった「ブログされています?」
「はい」と答えると「かぎろひさん?」と言われてビックリ。「naraclubさんとかぎろひさんのブログは毎日見ていますよ」とのことだった。
ブログにも書いてあった。⇒★

翌年(2013)の9月から「かぎろひ歴史探訪」がスタートすると、藤村さんもすぐに会員になって参加してくださるようになった。
お昼の龍講座のとき、藤村さんはいちばん前に座って大きくうなずきながら聞いてくれるので、喋りやすかった、とセンセ。
2015年からは山歩きの仲間に。
ブログをやっていてよかったと思うのはこんなときだ。ちゃんと記録になっている。
初めてご一緒したのは三郎ヶ岳(2015.5.11)⇒★
布施城跡⇒(2015.8.4)⇒★
二上山(2016.5.6)⇒★
ダイトレ(2016.6.14)⇒★
伊奈佐山(2017.4.5)⇒★
金剛山(2017.6.16)⇒★
大洞山(2017.11.27)⇒★
釈迦ヶ岳(2018.10.30)⇒★
局ヶ岳(2019.4.9)⇒★
後ろ姿しかなくて残念だが、釈迦ヶ岳をめざす藤村さん

局ヶ岳登山で

「かぎろひ歴史探訪」のこともよくFBにアップしてくれていた。
結局、最後のご参加になってしまった4月2日「佐紀佐保路から佐保川沿い桜並木」
藤村さんはその夜にFBにアップ。⇒★

参加された時は必ずFBで報告されていた。
藤村さんのFB⇒★
個人的にメールを交わしたことも多々。
そうそう、「かぎろひの大和路」のおたより欄に掲載させていただいたこともあった。
「載せていいですか」とお聞きしたら「どうぞどうぞ」と快諾いただいたのに、「まほろばソムリエとは書かないでね」と言われたことを思い出す。博識なのに、謙虚なお人柄だった。
紹介しておきますね。かぎろひ誌30号掲載。もう5年も前になる。
奈良は季節ごと、天気によって違った風景が見られるので同じ所でも常に刺激があります。
お昼休みには、参加者の皆さんからブドウやお菓子をいただくなど和気あいあいとした雰囲気で盛り上がりました。
最後に今西酒造さんを入れられたのはヒットでしたね。先代さんが亡くなられたので、皆で応援したいと思っていたのでいい機会でした。
たくさんの方が試飲?に参加されお互いの垣根がとれてよかったですね。日本酒の効用です。
奈良へ行くたびに、JR奈良駅2階で「風の森」や「篠峯」などを買っていましたが「三諸杉」がこれほどいいお酒とは知りませんでした。いいお酒を教えていただいてありがたかったです。
関西でも、日本酒を銘柄で飲むようになりいいお酒を探す楽しみができてきました。
お土産に買ったのを飲むのが楽しみです。
いい経験をさせていただき本当にありがとうございました。
いろいろ先回りされてのお手配お疲れさまでございました。
また一人ひとりに写真などを下さり感激です。
そうそう、油絵も描かれていたはず。
年賀状はいつも自作の版画だった。

印刷ハガキが多くなるなかで、数少ない手書き、しかも作品付きで、毎年楽しみにしている年賀状のひとつだった。
もういただけないと思うと、さみしさがつのる。
藤村さん、ほんとうにありがとうございました。
心からご冥福をお祈り申し上げます。
09
追悼 露の雅さん
1月16日、落語家の露の雅(つゆの・みやび)さんが35歳で急逝されたことを、新聞の訃報欄で知りました。
ワタクシの娘とさほど変わらない歳だと思うと、身体の力が抜けていくような感じになります。ご両親の悲しみはいかばかりかと、お悔やみ申し上げます。
露の雅さんと親交があったわけではないのですが、これまでに2度、公演中の写真を撮る機会がありました。
話されている間ずっと、カメラを向けて彼女に向き合いました。ひたむきな練習を思わせる豊かな表情、あどけなさが残る笑顔、もうそれだけで親近感をもつことになりました。つやのある声や知的な雰囲気も印象に残っています。
実際に紙面に使う写真は1枚だけなのですが、魅せられて、たくさんの写真を撮っていました。
ワタクシのパソコンの中だけに貴重な写真を眠らせておくのも申しわけありませんので、ここに披露して、ご冥福をお祈りしたいと思います。
2012.2.17 ならまちセンター


2014.10.7 ならまちセンター


ワタクシの娘とさほど変わらない歳だと思うと、身体の力が抜けていくような感じになります。ご両親の悲しみはいかばかりかと、お悔やみ申し上げます。
露の雅さんと親交があったわけではないのですが、これまでに2度、公演中の写真を撮る機会がありました。
話されている間ずっと、カメラを向けて彼女に向き合いました。ひたむきな練習を思わせる豊かな表情、あどけなさが残る笑顔、もうそれだけで親近感をもつことになりました。つやのある声や知的な雰囲気も印象に残っています。
実際に紙面に使う写真は1枚だけなのですが、魅せられて、たくさんの写真を撮っていました。
ワタクシのパソコンの中だけに貴重な写真を眠らせておくのも申しわけありませんので、ここに披露して、ご冥福をお祈りしたいと思います。
2012.2.17 ならまちセンター


2014.10.7 ならまちセンター


24
追悼 油長酒造 山本会長
1月9日、今年も正暦寺で「菩提酛清酒祭」が行われました。

今年は5人の仲間と参加し、そのことをブログに書こうとしたのですが・・・。
菩提酛の仕込に山本長兵衛さんの姿がないという事実に、改めて衝撃を受けました。蔵元の皆さんはもっとひしひしとその大きさを感じられていたのではないでしょうか。
500年前のお酒づくり、菩提酛復興の、いちばんの立役者とも言える油長酒造の会長、第12代山本長兵衛さんは、昨年11月、急逝されました。64歳という若さでした。
菩提酛復興の足跡を振り返ってみます。
平成8年(1996)、山本長兵衛さんが蔵元仲間に話をもちかけて「奈良県菩提もとによる清酒製造研究会」が発足。座長は山本長兵衛さん(このときは油長酒造の社長)。設立時の蔵元会員は15。奈良県工業技術センターの協力を得て、文献を研究しつつ、天然微生物の採取などに取り組まれます。
3年間の研究を経て、平成11年(1999)復興の成功と市販にこぎつけました。
当時の写真(紙焼きを撮影)

『かぎろひの大和路』誌では、菩提酛のことをシリーズで取り上げさせていただきお世話になりました。ワタクシの担当ではなかったのがちょっと残念なのですが。
シリーズ②(1999.5発行)に載る山本座長の言葉
菩提酛づくりが奈良の風物詩になるよう、さらに酛の完成度を高めるよう研究を続けます。
それから20年近く経った今、まさに奈良の風物詩になりつつあるなあと、たくさんの見学者を見て思わずにはいられません。
菩提酛づくりに関わる蔵元さんたちにも世代交代が感じられるようになりました。こうして受け継がれていくことを長兵衛さんも喜んでいらっしゃるでしょうと、M先生。
奇しくも、12年前に菩提酛づくりを体験した3人が今年、正暦寺に集まり、長兵衛さんにとても丁寧に教えていただいたことなど共通の思い出話ができたのもなによりでした。
個人的な思い出話もご紹介させてください。
平成16年(2004)『かぎろひの大和路』御所特集のとき、裏表紙に、御所の3つの蔵が並ぶ広告をいただいたことがあります。大好きな御所のお酒に並んでほしいという企画を持っていったところ、応援をいただき、あとの2つの蔵にも行ってきなさいと送り出してくださったのでした。2蔵にも快くOKをいただいたことは忘れられません。

その4年後、もっと個人的な話で恐縮ですが、母を亡くして落ち込んでいたとき、高校生の娘がワタクシの誕生日に「風の森」をプレゼントしてくれたのです。ずっと前にも書いたことがあると思うのですが、改めて。
あまりにうれしくて、蔵元にメールを送ってしまったのでした。
秋色ただよい始めました。
たいへんご無沙汰しております。
私事でいろいろありまして、かぎろひ誌の発行が大幅に遅れているような状況でございます。
さて、そんななか、今日はとてもうれしい出来事がありましたので、ご報告させてください。
昨日、私の誕生日だったのですが、高校生の娘から思いがけないプレゼントがあったのです。
それがなんと、「風の森」純米大吟醸 しぼり華(山田錦 精米歩合45%)の逸品!
制服姿で、一升瓶をかついで帰ってまいりました(きちんと包装してくださっていましたのでご安心を)。
アルバイトでためたお金をつぎこんでのプレゼントに胸が熱くなりました。
私が、珍しく最近ちょっと元気がなかったものですから、大盤振る舞いのプレゼントとなったようです。母親を元気づけようとひらめいたのが日本酒というのも、ちょっと複雑なものがありますが(^_^;)
・・・
お返事は全く期待していなかったのですが、蔵元じきじきにメールが届いてビックリ。
お誕生日おめでとうございます。
娘さんの誕生日プレゼントが風の森だったとは造り手としてもうれしいかぎりです。
母親思いの娘さんですね。
また、元気を出してかぎろひの大和路発行してください。
きっとかぎろひさんの文章で元気をもらっている読者の方が待って下さってますよ。
稲穂が頭をたれてきました。またお酒造りが始まります。
今年も皆さんが元気になっていただけるような風の森を造りたいと思っております。
今読んでも、いや今だからいっそう胸をうたれます。
そうそう、山本長兵衛さんは、「風の森」の生みの親でもあります。純米、火入れなし、加水なし、無濾過にこだわったフレッシュなお酒は、じわじわと酒好きの間に広まり、今や全国区ですよね。いわゆる酒米ではなく、アキツホという食米を用いて、おいしくてリーズナブルなお酒をつくられたことは画期的だったのだと思います。
今期の「風の森」初しぼり、会長も見届けられたでしょうか。

お米を磨いたらうまい酒ができるのかと思っていたワタクシに、そうではないことを教えてくれたのも「風の森」でした。20%しか磨いていない「風の森 雄町80」や「風の森 山田錦80」にお酒造りの奥深さを感じたものです。
長兵衛さんは、けれども、自分の蔵のことだけではなく「奈良のお酒は全国的にみてもレベルが高い」とおっしゃり、酒造業界全体のことを考えていらっしゃるようでした。
ずいぶん前に、ある蔵元を取材したときに聞いた話が印象に残っています。
頼りにしていた杜氏が突然倒れ、お手上げ状態だったときに、長兵衛さんが駆けつけてくれたのだとか。年末年始の、自分の蔵も多忙を極めるときに来て支えてもらい恩義に感じている、足を向けては寝られないと、しみじみおっしゃっていました。
蔵元仲間からも一目おかれ、尊敬される、存在だったのでしょう。
どうもありがとうございました。ご冥福をお祈り申し上げます。
あちらで、今西酒造の先代とお酒談義をされているかも、と考えると、少し気持ちが和みます。

今年は5人の仲間と参加し、そのことをブログに書こうとしたのですが・・・。
菩提酛の仕込に山本長兵衛さんの姿がないという事実に、改めて衝撃を受けました。蔵元の皆さんはもっとひしひしとその大きさを感じられていたのではないでしょうか。
500年前のお酒づくり、菩提酛復興の、いちばんの立役者とも言える油長酒造の会長、第12代山本長兵衛さんは、昨年11月、急逝されました。64歳という若さでした。
菩提酛復興の足跡を振り返ってみます。
平成8年(1996)、山本長兵衛さんが蔵元仲間に話をもちかけて「奈良県菩提もとによる清酒製造研究会」が発足。座長は山本長兵衛さん(このときは油長酒造の社長)。設立時の蔵元会員は15。奈良県工業技術センターの協力を得て、文献を研究しつつ、天然微生物の採取などに取り組まれます。
3年間の研究を経て、平成11年(1999)復興の成功と市販にこぎつけました。
当時の写真(紙焼きを撮影)

『かぎろひの大和路』誌では、菩提酛のことをシリーズで取り上げさせていただきお世話になりました。ワタクシの担当ではなかったのがちょっと残念なのですが。
シリーズ②(1999.5発行)に載る山本座長の言葉
菩提酛づくりが奈良の風物詩になるよう、さらに酛の完成度を高めるよう研究を続けます。
それから20年近く経った今、まさに奈良の風物詩になりつつあるなあと、たくさんの見学者を見て思わずにはいられません。
菩提酛づくりに関わる蔵元さんたちにも世代交代が感じられるようになりました。こうして受け継がれていくことを長兵衛さんも喜んでいらっしゃるでしょうと、M先生。
奇しくも、12年前に菩提酛づくりを体験した3人が今年、正暦寺に集まり、長兵衛さんにとても丁寧に教えていただいたことなど共通の思い出話ができたのもなによりでした。
個人的な思い出話もご紹介させてください。
平成16年(2004)『かぎろひの大和路』御所特集のとき、裏表紙に、御所の3つの蔵が並ぶ広告をいただいたことがあります。大好きな御所のお酒に並んでほしいという企画を持っていったところ、応援をいただき、あとの2つの蔵にも行ってきなさいと送り出してくださったのでした。2蔵にも快くOKをいただいたことは忘れられません。

その4年後、もっと個人的な話で恐縮ですが、母を亡くして落ち込んでいたとき、高校生の娘がワタクシの誕生日に「風の森」をプレゼントしてくれたのです。ずっと前にも書いたことがあると思うのですが、改めて。
あまりにうれしくて、蔵元にメールを送ってしまったのでした。
秋色ただよい始めました。
たいへんご無沙汰しております。
私事でいろいろありまして、かぎろひ誌の発行が大幅に遅れているような状況でございます。
さて、そんななか、今日はとてもうれしい出来事がありましたので、ご報告させてください。
昨日、私の誕生日だったのですが、高校生の娘から思いがけないプレゼントがあったのです。
それがなんと、「風の森」純米大吟醸 しぼり華(山田錦 精米歩合45%)の逸品!
制服姿で、一升瓶をかついで帰ってまいりました(きちんと包装してくださっていましたのでご安心を)。
アルバイトでためたお金をつぎこんでのプレゼントに胸が熱くなりました。
私が、珍しく最近ちょっと元気がなかったものですから、大盤振る舞いのプレゼントとなったようです。母親を元気づけようとひらめいたのが日本酒というのも、ちょっと複雑なものがありますが(^_^;)
・・・
お返事は全く期待していなかったのですが、蔵元じきじきにメールが届いてビックリ。
お誕生日おめでとうございます。
娘さんの誕生日プレゼントが風の森だったとは造り手としてもうれしいかぎりです。
母親思いの娘さんですね。
また、元気を出してかぎろひの大和路発行してください。
きっとかぎろひさんの文章で元気をもらっている読者の方が待って下さってますよ。
稲穂が頭をたれてきました。またお酒造りが始まります。
今年も皆さんが元気になっていただけるような風の森を造りたいと思っております。
今読んでも、いや今だからいっそう胸をうたれます。
そうそう、山本長兵衛さんは、「風の森」の生みの親でもあります。純米、火入れなし、加水なし、無濾過にこだわったフレッシュなお酒は、じわじわと酒好きの間に広まり、今や全国区ですよね。いわゆる酒米ではなく、アキツホという食米を用いて、おいしくてリーズナブルなお酒をつくられたことは画期的だったのだと思います。
今期の「風の森」初しぼり、会長も見届けられたでしょうか。

お米を磨いたらうまい酒ができるのかと思っていたワタクシに、そうではないことを教えてくれたのも「風の森」でした。20%しか磨いていない「風の森 雄町80」や「風の森 山田錦80」にお酒造りの奥深さを感じたものです。
長兵衛さんは、けれども、自分の蔵のことだけではなく「奈良のお酒は全国的にみてもレベルが高い」とおっしゃり、酒造業界全体のことを考えていらっしゃるようでした。
ずいぶん前に、ある蔵元を取材したときに聞いた話が印象に残っています。
頼りにしていた杜氏が突然倒れ、お手上げ状態だったときに、長兵衛さんが駆けつけてくれたのだとか。年末年始の、自分の蔵も多忙を極めるときに来て支えてもらい恩義に感じている、足を向けては寝られないと、しみじみおっしゃっていました。
蔵元仲間からも一目おかれ、尊敬される、存在だったのでしょう。
どうもありがとうございました。ご冥福をお祈り申し上げます。
あちらで、今西酒造の先代とお酒談義をされているかも、と考えると、少し気持ちが和みます。
12