かぎろひNOW
悠久の奈良大和路を一歩ずつ 風景、もの、人…との出会いを楽しみながら
ある生涯の七つの場所 その②
本日、2022年9月24日は、辻邦生生誕98年。
生まれた日と亡くなった日は、辻邦生関連のことを書くことにしている。
実は最近、変朴さんという方から『ある生涯の七つの場所』について、齟齬が多いという非公開コメントを頂戴していて気になっている。
『ある生涯の七つの場所』というのは、辻邦生が15年にわたって雑誌『海』に連載した意欲作。このブログでも以前とりあげたことがある。⇒★

100の短編からなり、掌編としても楽しめるが、赤・橙・黄・緑…という七つの色別で読むと一つのストーリーが成り立ち、また、I群、2群、3群…というふうに読むと、人物が浮かび上がるという構成になっている。
しかも、4世代にわたり、どれもが「私」で書かれているので、スッと理解するには複雑すぎる。というか、壮大巨編なのである。
ワタクシは、ン十年前、発行されるごとに読んだままだったのだが、3年前に、色別に挑戦。
しかーし、齟齬には気づかなかった。それぞれの運命的な物語に心を揺さぶられるばかりであった。
変朴さんのコメントを紹介しよう。非公開でいただいたのに申し訳ないのだが、本名じゃないし、お許しあれ。
コメントは2度。
8月11日
ほぼ50年ぶりに縦横に読み返してみました。
主要なテーマの魅力は変わっていませんが、編集者のせいなのか、15年間のブレなのか、読み手が老化し過ぎて細部にこだわりすぎるのか、内容の齟齬が気になりました。
プロローグでは主人公の祖父が役所を辞めて渡米するとなっていますが、月の舞いでは役所を辞めたのは主人公の父が旧中3の時。
川上康夫は、落日の中では帯広のミッションスクールの舎監になって入学直後の大学を去るのに、椎の木のほとりで福島の中学の教師になって去ったことになっている。
医者の伯父は、北海のほとりでは院長の代診で勤めているのに、月曜日の記憶では最初の訪問時に開業していた家があったりする。
祭の果て・月曜日の記憶では、失踪した中学教師は安藤甚三だが、ジュラの夜明けでは安藤甚二(繰り返しで出るので誤植ではない)。
こういう個所は他にもあり、一気に読んでいると感興が殺がれてしまいます。
文庫化された段階では、訂正されているのかもしれませんが、編集者が気づかなかったのか、著者が訂正の必要を認めなかったのか、今となってはどうにもならないことではありますが、意欲作だっただけに、勿体ないと思うことしきりです。
変朴さんに直接メールするすべがないので、一応、返信コメントをしておいた。愛読者同士ということで親近感があるし、辻作品に対する批判だとしてもうれしいやん。
変朴さん コメントありがとうございます。
ご指摘の点、全く気づいていませんでした。
この次はⅠ群、Ⅱ群…という読み方をしてみようと思っています。変朴さんへご連絡するすべがありませんので、また、ブログでご報告しますね。
すると、また、(非公開)コメントが。
私も第1巻以降、発行される度に読んで、そのままにしていたのです。
断捨離を考え、ため込んでいた本を売ろうとしたのですが、純文学は全く売れないのが今の世の中。で、辻邦生の本も逐次ゴミの日に処分していったのですが、この作品だけは、超長期に渡る複雑な構成の連作短編群だったので、年金族になったこともあり、場所別・番号別に読んでみたのです。
集中的に読んだので、初めて齟齬に気付きました。
人間の自由も、愛も、自然と時の流れとが織りなす生活の中にあって~などと考えてみようとはするものの、「母が療養所から退院したのはいつなんじゃー」~赤(「北海のほとり」のとおりなら「祭の果て」や「彩られた雲」の主人公の父の生活が変わってしまう。)、「八重おばさまには女の子がいたんじゃないのか」(先行する「月の舞い」と青の「赤い扇」。これによって、主人公の母、朝代の存在に影響が出る筈)、「南部修治は父の友人ではなく叔父の友人だろー」(菫「桜の~」。その叔父の年齢によっては、南部の元婚約者・楠木伊根子の年齢が高くなるので~「彩られた雲」「夜の入口」等々、連作として、通しで読むにはつらいものがあります。
辻邦生と編集者との関係は判りませんが、「海」の掲載に当たって当然チェックしたはずです。鉄道技師の息子の職業、マルティン・コップの小屋の火事、川上康夫の帝大退学後ろの身の振り方……入り組んだ構造の作品だけに、当時気づけば照会もできたろうになぁと、存在を忘れていたプロローグを読んだら、祖父が役所を辞めて渡米すると父に語る。「ちょっと待ってよ、話が違うだろー」
こんな風に長編を読んだのは初めての経験でした。辻さん、御免なさい。
辻作品に齟齬だと? うそ。ならば検証しなければ、という気持ちで再読し始めたのだが…全巻読むには時間がかかりすぎるので、変朴さんご指摘の箇所を集中的にあたっているところ。
今の時点では、変朴さんのご指摘全てに納得しているわけではないのだが…
たとえば、父が役所をやめてアメリカへ行った時期が食い違うという点について。実際には中三の時に、母が「お父さまが、役所をおやめになりました」とあって、別の仕事を始めることになっている。
プロローグは、子どもが幼少時のこと。父は「こんど私は役所をやめてアメリカに出かけることになった」と小さな子に語っているのだ。この時は、役場を正式に退職したのではなく出向というかたち。しかし、小さな子には役所をやめて、というほうが自然ではないだろうか。
川上康夫にしても、大学をやめて帯広のミッションスクールの舎監として旅だったが、それから数年経っているから、福島の中学教師になっていてもおかしくないのでは。いや、やはり無理があるか(;^_^A
と、辻褄を合わそうとするのだが、明らかにおかしい箇所を発見しているのも事実。
認めざるを得ないのは、固有名詞の間違い。失踪した中学教師、安藤甚三が、後に出現すると、安藤甚二に。
また、「八重おばさま」について、「女のお子さんだけでしたので」(月の舞い)とあるのに、「八重おばさまに子どもがなかったので」(赤い扇)になっている!
このようなミスって、編集者(校正者)の責任が大きいのではないか。もしかしたら、その後に出た文庫本や全集では修正されている?
変朴さんの克明な読み方に驚嘆するばかり。
引き続き、読んでいくつもりなので、いつか、まとめてご報告しなければ。全集を確認する必要もありそうやね。ともあれ、ありがとうございました。
生まれた日と亡くなった日は、辻邦生関連のことを書くことにしている。
実は最近、変朴さんという方から『ある生涯の七つの場所』について、齟齬が多いという非公開コメントを頂戴していて気になっている。
『ある生涯の七つの場所』というのは、辻邦生が15年にわたって雑誌『海』に連載した意欲作。このブログでも以前とりあげたことがある。⇒★

100の短編からなり、掌編としても楽しめるが、赤・橙・黄・緑…という七つの色別で読むと一つのストーリーが成り立ち、また、I群、2群、3群…というふうに読むと、人物が浮かび上がるという構成になっている。
しかも、4世代にわたり、どれもが「私」で書かれているので、スッと理解するには複雑すぎる。というか、壮大巨編なのである。
ワタクシは、ン十年前、発行されるごとに読んだままだったのだが、3年前に、色別に挑戦。
しかーし、齟齬には気づかなかった。それぞれの運命的な物語に心を揺さぶられるばかりであった。
変朴さんのコメントを紹介しよう。非公開でいただいたのに申し訳ないのだが、本名じゃないし、お許しあれ。
コメントは2度。
8月11日
ほぼ50年ぶりに縦横に読み返してみました。
主要なテーマの魅力は変わっていませんが、編集者のせいなのか、15年間のブレなのか、読み手が老化し過ぎて細部にこだわりすぎるのか、内容の齟齬が気になりました。
プロローグでは主人公の祖父が役所を辞めて渡米するとなっていますが、月の舞いでは役所を辞めたのは主人公の父が旧中3の時。
川上康夫は、落日の中では帯広のミッションスクールの舎監になって入学直後の大学を去るのに、椎の木のほとりで福島の中学の教師になって去ったことになっている。
医者の伯父は、北海のほとりでは院長の代診で勤めているのに、月曜日の記憶では最初の訪問時に開業していた家があったりする。
祭の果て・月曜日の記憶では、失踪した中学教師は安藤甚三だが、ジュラの夜明けでは安藤甚二(繰り返しで出るので誤植ではない)。
こういう個所は他にもあり、一気に読んでいると感興が殺がれてしまいます。
文庫化された段階では、訂正されているのかもしれませんが、編集者が気づかなかったのか、著者が訂正の必要を認めなかったのか、今となってはどうにもならないことではありますが、意欲作だっただけに、勿体ないと思うことしきりです。
変朴さんに直接メールするすべがないので、一応、返信コメントをしておいた。愛読者同士ということで親近感があるし、辻作品に対する批判だとしてもうれしいやん。
変朴さん コメントありがとうございます。
ご指摘の点、全く気づいていませんでした。
この次はⅠ群、Ⅱ群…という読み方をしてみようと思っています。変朴さんへご連絡するすべがありませんので、また、ブログでご報告しますね。
すると、また、(非公開)コメントが。
私も第1巻以降、発行される度に読んで、そのままにしていたのです。
断捨離を考え、ため込んでいた本を売ろうとしたのですが、純文学は全く売れないのが今の世の中。で、辻邦生の本も逐次ゴミの日に処分していったのですが、この作品だけは、超長期に渡る複雑な構成の連作短編群だったので、年金族になったこともあり、場所別・番号別に読んでみたのです。
集中的に読んだので、初めて齟齬に気付きました。
人間の自由も、愛も、自然と時の流れとが織りなす生活の中にあって~などと考えてみようとはするものの、「母が療養所から退院したのはいつなんじゃー」~赤(「北海のほとり」のとおりなら「祭の果て」や「彩られた雲」の主人公の父の生活が変わってしまう。)、「八重おばさまには女の子がいたんじゃないのか」(先行する「月の舞い」と青の「赤い扇」。これによって、主人公の母、朝代の存在に影響が出る筈)、「南部修治は父の友人ではなく叔父の友人だろー」(菫「桜の~」。その叔父の年齢によっては、南部の元婚約者・楠木伊根子の年齢が高くなるので~「彩られた雲」「夜の入口」等々、連作として、通しで読むにはつらいものがあります。
辻邦生と編集者との関係は判りませんが、「海」の掲載に当たって当然チェックしたはずです。鉄道技師の息子の職業、マルティン・コップの小屋の火事、川上康夫の帝大退学後ろの身の振り方……入り組んだ構造の作品だけに、当時気づけば照会もできたろうになぁと、存在を忘れていたプロローグを読んだら、祖父が役所を辞めて渡米すると父に語る。「ちょっと待ってよ、話が違うだろー」
こんな風に長編を読んだのは初めての経験でした。辻さん、御免なさい。
辻作品に齟齬だと? うそ。ならば検証しなければ、という気持ちで再読し始めたのだが…全巻読むには時間がかかりすぎるので、変朴さんご指摘の箇所を集中的にあたっているところ。
今の時点では、変朴さんのご指摘全てに納得しているわけではないのだが…
たとえば、父が役所をやめてアメリカへ行った時期が食い違うという点について。実際には中三の時に、母が「お父さまが、役所をおやめになりました」とあって、別の仕事を始めることになっている。
プロローグは、子どもが幼少時のこと。父は「こんど私は役所をやめてアメリカに出かけることになった」と小さな子に語っているのだ。この時は、役場を正式に退職したのではなく出向というかたち。しかし、小さな子には役所をやめて、というほうが自然ではないだろうか。
川上康夫にしても、大学をやめて帯広のミッションスクールの舎監として旅だったが、それから数年経っているから、福島の中学教師になっていてもおかしくないのでは。いや、やはり無理があるか(;^_^A
と、辻褄を合わそうとするのだが、明らかにおかしい箇所を発見しているのも事実。
認めざるを得ないのは、固有名詞の間違い。失踪した中学教師、安藤甚三が、後に出現すると、安藤甚二に。
また、「八重おばさま」について、「女のお子さんだけでしたので」(月の舞い)とあるのに、「八重おばさまに子どもがなかったので」(赤い扇)になっている!
このようなミスって、編集者(校正者)の責任が大きいのではないか。もしかしたら、その後に出た文庫本や全集では修正されている?
変朴さんの克明な読み方に驚嘆するばかり。
引き続き、読んでいくつもりなので、いつか、まとめてご報告しなければ。全集を確認する必要もありそうやね。ともあれ、ありがとうございました。
24
辻邦生とモネ
7月29日は「園生忌」。作家、辻邦生の命日である。没後24年。
毎年、命日と誕生日には辻さんに関することを書きたい。
さて、今年は何をと考えたとき、つい先日、「アサヒグループ大山崎山荘美術館」でモネの「睡蓮」を見たことが思い出された。⇒★
辻邦生がクロード・モネについて書いたエッセーがある。
最初は、たぶん、これ。エッセー集『海辺の墓地から』に所収されている「クロード・モネの世界」「モネの言葉」。

単行本は昭和49年(1974)の発行だが、初出は昭和39年(1964)「みすず現代美術第22巻『モネ』」(みすず書房)
続いて、昭和55年(1980)に発行された、辻邦生芸術論集『橄欖の小枝』のトップに、「モネの見たもの」が載る。

Ⅰ、Ⅱに分かれていて、Iは、上記の『海辺の墓地から』にある「クロード・モネの世界」と同じものだが、「モネの言葉」はない。
Ⅱの初出は昭和47年(1972)、中央公論社刊「世界の名画」6
『橄欖の小枝』には、モネの図版が6枚もとられていて、力が入っているのがわかる。

↑日を浴びるポプラ並木(国立西洋美術館)

その後、昭和59年(1984)に出た『時の果実』にも

「クロード・モネの世界」が載るが、最初のエッセーと同じものである。ただ、ここにも「モネの言葉」はない。
平成5年(1993)発行のエッセー集『美神との饗宴の森で』には、

モネに関する新しい文章が登場。題して「見えるもの見えないもの」「永遠の影を見る瞬間」。
文章のなかで、辻さんは、モネの有名な「ひなげし」に触れて、作家ミッシェル・ビュトールの指摘を紹介している。
五月の晴れた午後、赤くひなげしの咲く小高い丘に、黒リボン付きの黄色い帽子をかぶった夫人が、麦わら帽の少年と並んで立つ。
…
よく見ると、中景の左に、同じような夫人と少年が見える。
…
この二組の婦人と少年が、実は、同一の人物である、と指摘したのは、小説家のミッシェル・ビュトールだ。彼によると、前景の婦人と少年は、丘の上の婦人と少年が、ひなげしの花の中を歩き、丘の下に着いたところだという。その証拠に、前景の少年の腕には摘まれた赤い花が抱えられている。
なぜモネが同じ夫人と少年を、丘の上と下に描いたか。ビュトールは、この二人がぶらぶら丘を下ってくる「時間の経過を」表現するためだ、と説明する。

…
「時間の経過」そのものを正面から描いたのはモネが最初だろう。
ビュトールによると、モネは、見えない水面を描くのに熱中したように、見えない風、音響なども描いた。『パラソルを持つ婦人』では、夫人のスカーフがひらひら後になびいている。ここではパラソルに当る太陽とともに、風を描こうとしている。『ベル・イールの岩』では、岩に砕ける波のごうごういう響き。…印象派のモネに一歩踏み込んだ面白い解釈だ。
「ひなげし」は集英社『現代世界美術全集』2から。夫がずいぶん前に入手したもの。

先日、美術好きの上の娘が来たとき、「タツオクンが死んだら、これ頂戴」と言って帰った。娘にはかなわんなあ。誰もが死ぬとはわかっていても平気で口にされるとドキリ(笑)。はいはい、どうぞ。
毎年、命日と誕生日には辻さんに関することを書きたい。
さて、今年は何をと考えたとき、つい先日、「アサヒグループ大山崎山荘美術館」でモネの「睡蓮」を見たことが思い出された。⇒★
辻邦生がクロード・モネについて書いたエッセーがある。
最初は、たぶん、これ。エッセー集『海辺の墓地から』に所収されている「クロード・モネの世界」「モネの言葉」。

単行本は昭和49年(1974)の発行だが、初出は昭和39年(1964)「みすず現代美術第22巻『モネ』」(みすず書房)
続いて、昭和55年(1980)に発行された、辻邦生芸術論集『橄欖の小枝』のトップに、「モネの見たもの」が載る。

Ⅰ、Ⅱに分かれていて、Iは、上記の『海辺の墓地から』にある「クロード・モネの世界」と同じものだが、「モネの言葉」はない。
Ⅱの初出は昭和47年(1972)、中央公論社刊「世界の名画」6
『橄欖の小枝』には、モネの図版が6枚もとられていて、力が入っているのがわかる。

↑日を浴びるポプラ並木(国立西洋美術館)

その後、昭和59年(1984)に出た『時の果実』にも

「クロード・モネの世界」が載るが、最初のエッセーと同じものである。ただ、ここにも「モネの言葉」はない。
平成5年(1993)発行のエッセー集『美神との饗宴の森で』には、

モネに関する新しい文章が登場。題して「見えるもの見えないもの」「永遠の影を見る瞬間」。
文章のなかで、辻さんは、モネの有名な「ひなげし」に触れて、作家ミッシェル・ビュトールの指摘を紹介している。
五月の晴れた午後、赤くひなげしの咲く小高い丘に、黒リボン付きの黄色い帽子をかぶった夫人が、麦わら帽の少年と並んで立つ。
…
よく見ると、中景の左に、同じような夫人と少年が見える。
…
この二組の婦人と少年が、実は、同一の人物である、と指摘したのは、小説家のミッシェル・ビュトールだ。彼によると、前景の婦人と少年は、丘の上の婦人と少年が、ひなげしの花の中を歩き、丘の下に着いたところだという。その証拠に、前景の少年の腕には摘まれた赤い花が抱えられている。
なぜモネが同じ夫人と少年を、丘の上と下に描いたか。ビュトールは、この二人がぶらぶら丘を下ってくる「時間の経過を」表現するためだ、と説明する。

…
「時間の経過」そのものを正面から描いたのはモネが最初だろう。
ビュトールによると、モネは、見えない水面を描くのに熱中したように、見えない風、音響なども描いた。『パラソルを持つ婦人』では、夫人のスカーフがひらひら後になびいている。ここではパラソルに当る太陽とともに、風を描こうとしている。『ベル・イールの岩』では、岩に砕ける波のごうごういう響き。…印象派のモネに一歩踏み込んだ面白い解釈だ。
「ひなげし」は集英社『現代世界美術全集』2から。夫がずいぶん前に入手したもの。

先日、美術好きの上の娘が来たとき、「タツオクンが死んだら、これ頂戴」と言って帰った。娘にはかなわんなあ。誰もが死ぬとはわかっていても平気で口にされるとドキリ(笑)。はいはい、どうぞ。
29
ユリアと魔法の都
先日、娘から送られてきた写真で初めて知った「キッザニア」。
子供向けの職業体験型テーマパークだそうで。⇒★
へえぇ、サイトを訪ねてみると
キッザニアは楽しみながら社会のしくみを学ぶことができる「こどもが主役の街」です。
体験できる仕事やサービスは、約100種類!本格的な設備や道具を使って、こども達は大人のようにいろいろな仕事やサービスを体験することができます。
基本的に、大人が付き添うのは×だそうで、別の場所で待機。子どもだけがこのまちを楽しむ仕組みのようである。
なっちゃんとあーちゃんも、いろいろなお仕事を体験してきたもようだ。

↑お医者さん、料理人、研究者?
作った料理は持ち帰ることができるのだそう。この日は、鳴門金時のグラタンを作ったらしい。
制服とかも本格的。銀行などもあって、窓口業務の仕事をしたり、お客さんとして銀行口座を開いてキャッシュカードを発行してもらったりすることができるという。それも、ほんまの銀行さんが協賛協力してはるというからスゴイ。

子どもの国、こどもの街、やね。
ふと、思い浮かべたのが辻邦生が書いた唯一の童話、『ユリアと魔法の都』。

ユリア(小学校低学年ぐらい?)がたった1人で、山奥の両親の家から、都会に住むおじいさまの所へ出かけるのだが、たどりついたのは、子どもだけのまち。
…
歩いている人も、ガラス磨きも、新聞売りも、商店の主人も、床屋も、みんな子どもでした。駅前広場で、笛を鳴らして交通整理をしている巡査も子どもでした。運転手も子どもなら、乗っている客も子どもでした。
どこを見てもおとななどおりません。…子どもたちは、まるでおとなみたいに、せっせとまじめな顔をして働いていました。花をならべている女の子は、ちゃんとエプロンをかけ、ポケットから小さな手帖を出して、花の数をかぞえて、それを書きこんでおりました。肉屋では、ほほの赤い男の子が牛肉をうすく切ったり、豚肉をひいたりして働いていました。くつ屋では、子どもの主人が、子どものお客に、小さな子ども用のくつを出して「働くには、このほうがいいですよ」と説明していました。
白い配達車を運転する牛乳屋も、赤い自転車を走らす郵便配達も子どもでした。洗濯屋も道路工夫もガス屋も水道工も電気工もみんな子どもでした。
…
駅前広場でも銀行でも商店でもホテルでもやはり働いているのは子どもだけでした。子どもの支配人が、おかねを数えている子どもの銀行員を監督していました。受付係も子どもなら、集っているお客も子どもでした。どこへいっても、ユリアと同じ年ごろの子どもばかりでした。ユリアはふと、子どもの国にはいりこんだのだろうか、と考えました。
ユリアは、仕事をしないで遊んでいる子どもたちと友達になり、不思議な大都会の謎を解いてゆく。冒険をかさね、危険がせまるなか、最終章へ。
子供向けの職業体験型テーマパークだそうで。⇒★
へえぇ、サイトを訪ねてみると
キッザニアは楽しみながら社会のしくみを学ぶことができる「こどもが主役の街」です。
体験できる仕事やサービスは、約100種類!本格的な設備や道具を使って、こども達は大人のようにいろいろな仕事やサービスを体験することができます。
基本的に、大人が付き添うのは×だそうで、別の場所で待機。子どもだけがこのまちを楽しむ仕組みのようである。
なっちゃんとあーちゃんも、いろいろなお仕事を体験してきたもようだ。

↑お医者さん、料理人、研究者?
作った料理は持ち帰ることができるのだそう。この日は、鳴門金時のグラタンを作ったらしい。
制服とかも本格的。銀行などもあって、窓口業務の仕事をしたり、お客さんとして銀行口座を開いてキャッシュカードを発行してもらったりすることができるという。それも、ほんまの銀行さんが協賛協力してはるというからスゴイ。

子どもの国、こどもの街、やね。
ふと、思い浮かべたのが辻邦生が書いた唯一の童話、『ユリアと魔法の都』。

ユリア(小学校低学年ぐらい?)がたった1人で、山奥の両親の家から、都会に住むおじいさまの所へ出かけるのだが、たどりついたのは、子どもだけのまち。
…
歩いている人も、ガラス磨きも、新聞売りも、商店の主人も、床屋も、みんな子どもでした。駅前広場で、笛を鳴らして交通整理をしている巡査も子どもでした。運転手も子どもなら、乗っている客も子どもでした。
どこを見てもおとななどおりません。…子どもたちは、まるでおとなみたいに、せっせとまじめな顔をして働いていました。花をならべている女の子は、ちゃんとエプロンをかけ、ポケットから小さな手帖を出して、花の数をかぞえて、それを書きこんでおりました。肉屋では、ほほの赤い男の子が牛肉をうすく切ったり、豚肉をひいたりして働いていました。くつ屋では、子どもの主人が、子どものお客に、小さな子ども用のくつを出して「働くには、このほうがいいですよ」と説明していました。
白い配達車を運転する牛乳屋も、赤い自転車を走らす郵便配達も子どもでした。洗濯屋も道路工夫もガス屋も水道工も電気工もみんな子どもでした。
…
駅前広場でも銀行でも商店でもホテルでもやはり働いているのは子どもだけでした。子どもの支配人が、おかねを数えている子どもの銀行員を監督していました。受付係も子どもなら、集っているお客も子どもでした。どこへいっても、ユリアと同じ年ごろの子どもばかりでした。ユリアはふと、子どもの国にはいりこんだのだろうか、と考えました。
ユリアは、仕事をしないで遊んでいる子どもたちと友達になり、不思議な大都会の謎を解いてゆく。冒険をかさね、危険がせまるなか、最終章へ。
30
水の女
10月7日、奈良は未明から雨が降り続いた。
で、思い出したのが、9月27日に豪雨に遭ったこと(笑)
たまたまその日は夕刻から、奈良博に所用あり。
曇りのち雨という予報だったかな。いつもなら自転車で行くのだが、万一を考えてバスに。ちょっと早めに出て、近鉄奈良で降りて散策がてら博物館へ向かう予定だった。
近鉄奈良駅に着く頃には、バスの窓にポツリポツリ。降りてみたものの、雨はにわかに激しくなり、歩くどころではなくなって、再びバスの人に。
下車したバス停から博物館まで、ものの1分もかからない距離なのに、傘をさしても足元がずぶぬれ状態^^;
しかも約束の時間には早すぎて。

降りしきる雨をボーゼンと見つめるしかなかった。


やっぱりアメオンナなのか…
あ、でも、今日はどこへも行ってないよ、念のため(笑)
雨を見ながら、辻邦生の短編に、豪雨の中を女性が傘もささず濡れるにまかせて歩くシーンがあったことを思い出していた。タイトルは『水の女』
久しぶりに読んでみた。
6月終わりの都会の歩行者天国。大通りは若い男女であふれている。
遠くで雷鳴。さっきまで広がっていた青空がいつのまにか厚い灰色の雲で覆われる。
…
稲妻が紫いろに閃き 雷鳴が頭のすぐ上で轟くように鳴り渡る空から 一粒二粒と大粒の雨が降り出した時 歩行者天国に集っていた人々は まるでその日に予定されていたプログラムの中のイヴェントが起ったかのように わっと喚声をあげ 陽気に騒いで 一散に雨宿りの場所を目ざして駈け出したのだった
…
大通りはあっという間に空虚になり 物凄い勢いで降りしぶく雨に包まれた あたりは前よりも暗くなり 店々のショウウインドーのあかりが 夕暮れ時のように 急に なまめいた みずみずしい光に見えはじめた 雨は天空の底がぬけたように 一度に垂直に 滝さながらにふりそそいだ 雨脚が激しくコンクリート道路に当り 白いしぶきとなって跳ね返り みるみる濁流となって流れた
この大雨の中を1人の女性が歩いていく。
…
そのがらんとした大通りを 若い女が首をうなだれるようにして ゆっくりと歩いてゆくのだった 歩きだしてまだ間もないのに 長い髪も 白いコットンのドレスも すっかりぐっしょり濡れていた ぼくの眼から見ると その女のドレスはひどく古風な感じだった 細い衿がぴったり首を包み 両袖も長く 手首をカフスで留めてあり スカートも長く踝まであって フレヤーがたっぷりと拡がり 一昔前のどこか仏印あたりの植民地を歩いている西洋人の若い貴婦人といった感じだった
それが雨に打たれたため ドレスはぐっしょりと濡れて肌に張りつき 白い布地がほとんど透明になって 美しい肩や胸の膨らみが まるで裸になったように肌の柔かい肉色ごと くっきりと そこに浮び上っていたのだ 長いフレヤースカートも重たげに水を含んで よく伸びた形のいい脚にまつわりつき 腰のしなやかな動きを際立てながら 太腿と太腿の間に まるで蛙の指の股の皮膜のように貼りついていたのだった
この後、ミステリアスな展開になる、幻想的なお話。
気になる方は一読を。『睡蓮の午後』所収。

『睡蓮の午後』には12の短編が収められているが、他の作家が書いた文章の一節を冒頭に置き、そこから辻邦生の物語世界が広がるという冒険的野心作。パロディ小説とも言われているのだが。
辻夫人の佐保子さんは、次のように書いている。
昔から愛読していた作家や、近年になって夢中になったラテン・アメリカ文学から、まず冒頭にその一節を引用し、これに憑依して一挙に自分の創作世界に乗り移るという〈曲芸〉を楽しげに演じている。他の作家の本を読んでいると「書きたいことが溢れてきて、続きが読めなくなってしまう」とよく言っていたのは、まさにこのことかと思いあたる。
(『「たえず書く人」辻邦生と暮らして』から)
所収の12編すべて、文章には異例にも句読点がつけられていないのだが、それがどこか現実から遊離したような不思議な感覚をよびさます。
引用されている作家は、トーマス・マン、コクトー、ボルヘス、シュトルム、モーパッサンなど。
ちなみに『水の女』はヘッセ。
で、思い出したのが、9月27日に豪雨に遭ったこと(笑)
たまたまその日は夕刻から、奈良博に所用あり。
曇りのち雨という予報だったかな。いつもなら自転車で行くのだが、万一を考えてバスに。ちょっと早めに出て、近鉄奈良で降りて散策がてら博物館へ向かう予定だった。
近鉄奈良駅に着く頃には、バスの窓にポツリポツリ。降りてみたものの、雨はにわかに激しくなり、歩くどころではなくなって、再びバスの人に。
下車したバス停から博物館まで、ものの1分もかからない距離なのに、傘をさしても足元がずぶぬれ状態^^;
しかも約束の時間には早すぎて。

降りしきる雨をボーゼンと見つめるしかなかった。


やっぱりアメオンナなのか…
あ、でも、今日はどこへも行ってないよ、念のため(笑)
雨を見ながら、辻邦生の短編に、豪雨の中を女性が傘もささず濡れるにまかせて歩くシーンがあったことを思い出していた。タイトルは『水の女』
久しぶりに読んでみた。
6月終わりの都会の歩行者天国。大通りは若い男女であふれている。
遠くで雷鳴。さっきまで広がっていた青空がいつのまにか厚い灰色の雲で覆われる。
…
稲妻が紫いろに閃き 雷鳴が頭のすぐ上で轟くように鳴り渡る空から 一粒二粒と大粒の雨が降り出した時 歩行者天国に集っていた人々は まるでその日に予定されていたプログラムの中のイヴェントが起ったかのように わっと喚声をあげ 陽気に騒いで 一散に雨宿りの場所を目ざして駈け出したのだった
…
大通りはあっという間に空虚になり 物凄い勢いで降りしぶく雨に包まれた あたりは前よりも暗くなり 店々のショウウインドーのあかりが 夕暮れ時のように 急に なまめいた みずみずしい光に見えはじめた 雨は天空の底がぬけたように 一度に垂直に 滝さながらにふりそそいだ 雨脚が激しくコンクリート道路に当り 白いしぶきとなって跳ね返り みるみる濁流となって流れた
この大雨の中を1人の女性が歩いていく。
…
そのがらんとした大通りを 若い女が首をうなだれるようにして ゆっくりと歩いてゆくのだった 歩きだしてまだ間もないのに 長い髪も 白いコットンのドレスも すっかりぐっしょり濡れていた ぼくの眼から見ると その女のドレスはひどく古風な感じだった 細い衿がぴったり首を包み 両袖も長く 手首をカフスで留めてあり スカートも長く踝まであって フレヤーがたっぷりと拡がり 一昔前のどこか仏印あたりの植民地を歩いている西洋人の若い貴婦人といった感じだった
それが雨に打たれたため ドレスはぐっしょりと濡れて肌に張りつき 白い布地がほとんど透明になって 美しい肩や胸の膨らみが まるで裸になったように肌の柔かい肉色ごと くっきりと そこに浮び上っていたのだ 長いフレヤースカートも重たげに水を含んで よく伸びた形のいい脚にまつわりつき 腰のしなやかな動きを際立てながら 太腿と太腿の間に まるで蛙の指の股の皮膜のように貼りついていたのだった
この後、ミステリアスな展開になる、幻想的なお話。
気になる方は一読を。『睡蓮の午後』所収。

『睡蓮の午後』には12の短編が収められているが、他の作家が書いた文章の一節を冒頭に置き、そこから辻邦生の物語世界が広がるという冒険的野心作。パロディ小説とも言われているのだが。
辻夫人の佐保子さんは、次のように書いている。
昔から愛読していた作家や、近年になって夢中になったラテン・アメリカ文学から、まず冒頭にその一節を引用し、これに憑依して一挙に自分の創作世界に乗り移るという〈曲芸〉を楽しげに演じている。他の作家の本を読んでいると「書きたいことが溢れてきて、続きが読めなくなってしまう」とよく言っていたのは、まさにこのことかと思いあたる。
(『「たえず書く人」辻邦生と暮らして』から)
所収の12編すべて、文章には異例にも句読点がつけられていないのだが、それがどこか現実から遊離したような不思議な感覚をよびさます。
引用されている作家は、トーマス・マン、コクトー、ボルヘス、シュトルム、モーパッサンなど。
ちなみに『水の女』はヘッセ。
07
辻邦生にみる初秋
2022年9月24日は作家、辻邦生の生誕97年。亡くなった日と誕生日には、辻さん関連のことをゆっくり書きたいと思っている。
ずっと前から、辻さんの小説には「初秋」がよく出てくるなあと感じていた。夏の終わりの、9月あたり。もちろん、他の季節も出てくるのだが、秋ではなくて初秋というところがミソ(笑)
辻邦生が特に初秋を書く〈と思われる〉のは、9月24日生まれのせいもあるのでは? 誕生日が1週間違いのワタクシにとっても9月は特別感があるので、実はひそかにうれしい(笑)
今日、ブログ更新が遅れたのは、「初秋」の箇所を探していたため(笑)。そして、懐かしい小説はつい読みこんだりしてしまい…、今頃になってしまった。
ン十年も前から、辻邦生に「初秋」を感じながら、メモしていたわけではないので、どこに出てきたのか、すぐには指摘できないはがゆさ。ファンとしてはすっと出てくるようになりたいもの(笑)
「初秋」の記述はまだまだあるだろうが、今日、チェックできた箇所をご紹介。
●以前、ブログで紹介したこともあるが⇒★
秋の初めの谷間をまた明日になったら歩きはじめよう。灰褐色に渇いた岩尾根の向うから、群青の空を渡ってゆく淡い雲は、夏のころとほとんど変りないが、それでも雲母色の翳りがかすかに感じられるだろう。妻をこの谷間に連れてくることができたら、どんなにか喜んで、初秋の花々を集めてテーブルの上を飾ったことだろうと思う。
…(『円形劇場から』)
●この『円形劇場から』の冒頭にも出ている
今夜も風が出はじめた。いつも秋のはじめになると、この地方には決まって同じような風すじで烈風が走る。雨を含んだ雲が峰と峰の間を変幻しながら動いてゆく。散歩に出る折に、よく驟雨に襲われることがある。牧場の入口とか、谷を下る渓流の丸木橋のそばとか、葡萄畑への上り口とかで、私は、山の斜面をはうように降りこめてくる驟雨に包まれる。…
●二上山を舞台にしたということで、よく採り上げる『風越峠にて』の冒頭
私が山岳地方の旧制高校の頃の友人谷村明から久々で手紙を受けとったのは、まだ残暑の感じられる九月初めのことであった。
●『天草の雅歌』の終盤

コルネリアが、他の混血児たち二百八十九人と天川に追放されたのはその年の九月二十日のことであった。
樟の巨木をざわめかせる初秋の風のなかをポルトガル船四艘に分乗した長崎の入江をあとにした。
与志は遠ざかる船の艫にコルネリアが髪を風に吹かれじっと立っているのを見まもった。船は帆に風をはらみ、ゆっくり入江を出ていった。浜には身を投げて泣く人々が満ちていた。
●『時の扉』1ページ目

…
しなやかに、鷹揚な感じで揺れるポプラの上に、白い雲の塊が、鮮明な輪郭を描いて浮かんでいた。矢口が五年前、この北国の中学校に都落ち同然で赴任してきたとき、まず彼の心を捉えたのが、この澄明な、冷たい北の空に浮かぶ雲であった。特に矢口は夏の終わりの、郷愁を誘う、半透明な雲が、遠く地平線のむこうに消えるのを見るのが好きだったが…
●『雲の宴』上
第十章 沈鐘 冒頭
九月に入ってから、二、三日、夏の盛りを思わせる暑い日があったが、それを越すと、急に初秋らしい爽やかな風が吹きはじめた。白木冴子は、ほっとした気持で、編集室の窓から、鈴懸の葉が白く裏を返して揺れるのを眺めていた。

●これも以前ブログで採り上げたことのある「ある生涯の七つの場所」から⇒★

『夏の海の色』の最後
しかしそのとき、私はまだ城下町を離れていなかったけれど、武井とは遥か遠い距離に立っているような気がした。そしてその遠い距離の間を、ほとんど初秋の風と言ってもいい風が、音を立てて吹きすぎているのを感じた。
『月曜日の記憶』
八月半ばを過ぎると、もうこの北国の町は初秋の気配が濃くなった。それは内地の、あの美しい秋の先触れの爽やかな季節ではなくて、いきなり暗い冬の厳しい気候を暗示する、雲の多い、海の底光る一時期だった。
真夏の盛りにも、どこか熱量の足らなかった純粋な光は、白い淡い微光に変って、変幻する灰色の雲のあいだから、北の海らしい黒ずんだ海面に、神秘な絵画の背景のような光の束となって、射し込んでいた。海鳥の群れが港の防波堤の先で舞っていた。
『城の秋』
田村家のあるその城下町は、七年前とほとんど変っているようには見えなかった。木造の小さな駅舎にせよ、駅前の商人宿にせよ、掘割に沿った柳の並木にせよ、置き忘れた古い水彩画のように、以前と同じたたずまいで、残暑の感じられる静かな九月の午後の日に照らされていた。
実は、辻邦生の小説に「初秋」を感じていたら、あるエッセーに、辻邦生自身が書いたのだった。
四季折々の花や空合いが、最近とくに、生きているうえの恩寵的な贈物と感じられるようになったのは年のせいだろうか。なかんずく九月という月は、私の生まれ月であるせいか、特別に愛着が深い。私が小説のなかに夏の終りのことを書く場合が多いのも、そのせいなのだろう。これは私自身が気づかずにいたが、ある時、読者に指摘されて、あ、そうかと思った。
指摘した読者がワタクシではなくて、ちょっと残念(笑)
その後の文章も素敵なので続けよう。
…旧制高校が信州松本だったので、高原の初秋の気分は最高であると、昔からしみじみ感じていた。
…下宿に帰るとすぐ、まだ残暑のきびしい田や畑の中を、三城牧場や崖の湯あたりまで散歩した。畑は、棚に絡んだ胡瓜や南瓜やトマトなどが、いかにも一夏の太陽に飽食したようにぐったりと疲れて、乾いた葉の端が縮んで黄ばみ出していた。遠い山脈は鋼青色に連なり、乗鞍岳も常念岳も夏と変らぬ鋭い稜線を見せていたが、唐黍畑を吹く風は、さらさらと葉を鳴らし、もう秋がきていることを知らせた。
私はそんな散歩の折、長塚節の歌集をポケットから出して繰り返し読んだ。
白埴の甕こそよけれ霧ながら朝は冷たき水汲みにけり
とか
馬追虫の髭のそよろに来る秋はまなこを閉ぢて想ひみるべし
などという歌を口ずさむと、いまも初秋の高原の風が、若い時のままに、心の中を過ぎていくような気がする。季節の中に生きている幸せが胸の中に脹れあがるのだ。(「季節の中に生きること」より)
ずっと前から、辻さんの小説には「初秋」がよく出てくるなあと感じていた。夏の終わりの、9月あたり。もちろん、他の季節も出てくるのだが、秋ではなくて初秋というところがミソ(笑)
辻邦生が特に初秋を書く〈と思われる〉のは、9月24日生まれのせいもあるのでは? 誕生日が1週間違いのワタクシにとっても9月は特別感があるので、実はひそかにうれしい(笑)
今日、ブログ更新が遅れたのは、「初秋」の箇所を探していたため(笑)。そして、懐かしい小説はつい読みこんだりしてしまい…、今頃になってしまった。
ン十年も前から、辻邦生に「初秋」を感じながら、メモしていたわけではないので、どこに出てきたのか、すぐには指摘できないはがゆさ。ファンとしてはすっと出てくるようになりたいもの(笑)
「初秋」の記述はまだまだあるだろうが、今日、チェックできた箇所をご紹介。
●以前、ブログで紹介したこともあるが⇒★
秋の初めの谷間をまた明日になったら歩きはじめよう。灰褐色に渇いた岩尾根の向うから、群青の空を渡ってゆく淡い雲は、夏のころとほとんど変りないが、それでも雲母色の翳りがかすかに感じられるだろう。妻をこの谷間に連れてくることができたら、どんなにか喜んで、初秋の花々を集めてテーブルの上を飾ったことだろうと思う。
…(『円形劇場から』)
●この『円形劇場から』の冒頭にも出ている
今夜も風が出はじめた。いつも秋のはじめになると、この地方には決まって同じような風すじで烈風が走る。雨を含んだ雲が峰と峰の間を変幻しながら動いてゆく。散歩に出る折に、よく驟雨に襲われることがある。牧場の入口とか、谷を下る渓流の丸木橋のそばとか、葡萄畑への上り口とかで、私は、山の斜面をはうように降りこめてくる驟雨に包まれる。…
●二上山を舞台にしたということで、よく採り上げる『風越峠にて』の冒頭
私が山岳地方の旧制高校の頃の友人谷村明から久々で手紙を受けとったのは、まだ残暑の感じられる九月初めのことであった。
●『天草の雅歌』の終盤

コルネリアが、他の混血児たち二百八十九人と天川に追放されたのはその年の九月二十日のことであった。
樟の巨木をざわめかせる初秋の風のなかをポルトガル船四艘に分乗した長崎の入江をあとにした。
与志は遠ざかる船の艫にコルネリアが髪を風に吹かれじっと立っているのを見まもった。船は帆に風をはらみ、ゆっくり入江を出ていった。浜には身を投げて泣く人々が満ちていた。
●『時の扉』1ページ目

…
しなやかに、鷹揚な感じで揺れるポプラの上に、白い雲の塊が、鮮明な輪郭を描いて浮かんでいた。矢口が五年前、この北国の中学校に都落ち同然で赴任してきたとき、まず彼の心を捉えたのが、この澄明な、冷たい北の空に浮かぶ雲であった。特に矢口は夏の終わりの、郷愁を誘う、半透明な雲が、遠く地平線のむこうに消えるのを見るのが好きだったが…
●『雲の宴』上
第十章 沈鐘 冒頭
九月に入ってから、二、三日、夏の盛りを思わせる暑い日があったが、それを越すと、急に初秋らしい爽やかな風が吹きはじめた。白木冴子は、ほっとした気持で、編集室の窓から、鈴懸の葉が白く裏を返して揺れるのを眺めていた。

●これも以前ブログで採り上げたことのある「ある生涯の七つの場所」から⇒★

『夏の海の色』の最後
しかしそのとき、私はまだ城下町を離れていなかったけれど、武井とは遥か遠い距離に立っているような気がした。そしてその遠い距離の間を、ほとんど初秋の風と言ってもいい風が、音を立てて吹きすぎているのを感じた。
『月曜日の記憶』
八月半ばを過ぎると、もうこの北国の町は初秋の気配が濃くなった。それは内地の、あの美しい秋の先触れの爽やかな季節ではなくて、いきなり暗い冬の厳しい気候を暗示する、雲の多い、海の底光る一時期だった。
真夏の盛りにも、どこか熱量の足らなかった純粋な光は、白い淡い微光に変って、変幻する灰色の雲のあいだから、北の海らしい黒ずんだ海面に、神秘な絵画の背景のような光の束となって、射し込んでいた。海鳥の群れが港の防波堤の先で舞っていた。
『城の秋』
田村家のあるその城下町は、七年前とほとんど変っているようには見えなかった。木造の小さな駅舎にせよ、駅前の商人宿にせよ、掘割に沿った柳の並木にせよ、置き忘れた古い水彩画のように、以前と同じたたずまいで、残暑の感じられる静かな九月の午後の日に照らされていた。
実は、辻邦生の小説に「初秋」を感じていたら、あるエッセーに、辻邦生自身が書いたのだった。
四季折々の花や空合いが、最近とくに、生きているうえの恩寵的な贈物と感じられるようになったのは年のせいだろうか。なかんずく九月という月は、私の生まれ月であるせいか、特別に愛着が深い。私が小説のなかに夏の終りのことを書く場合が多いのも、そのせいなのだろう。これは私自身が気づかずにいたが、ある時、読者に指摘されて、あ、そうかと思った。
指摘した読者がワタクシではなくて、ちょっと残念(笑)
その後の文章も素敵なので続けよう。
…旧制高校が信州松本だったので、高原の初秋の気分は最高であると、昔からしみじみ感じていた。
…下宿に帰るとすぐ、まだ残暑のきびしい田や畑の中を、三城牧場や崖の湯あたりまで散歩した。畑は、棚に絡んだ胡瓜や南瓜やトマトなどが、いかにも一夏の太陽に飽食したようにぐったりと疲れて、乾いた葉の端が縮んで黄ばみ出していた。遠い山脈は鋼青色に連なり、乗鞍岳も常念岳も夏と変らぬ鋭い稜線を見せていたが、唐黍畑を吹く風は、さらさらと葉を鳴らし、もう秋がきていることを知らせた。
私はそんな散歩の折、長塚節の歌集をポケットから出して繰り返し読んだ。
白埴の甕こそよけれ霧ながら朝は冷たき水汲みにけり
とか
馬追虫の髭のそよろに来る秋はまなこを閉ぢて想ひみるべし
などという歌を口ずさむと、いまも初秋の高原の風が、若い時のままに、心の中を過ぎていくような気がする。季節の中に生きている幸せが胸の中に脹れあがるのだ。(「季節の中に生きること」より)
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