かぎろひNOW
悠久の奈良大和路を一歩ずつ 風景、もの、人…との出会いを楽しみながら
佐渡旅行⑥金山の関連施設 北沢浮遊選鉱場跡
11
佐渡旅行⑤佐渡うどん
旅の楽しみのひとつは、その土地ならではの食を味わうことだろう。
今回の佐渡旅も、娘らがいろいろと趣向をこらしてくれていた。
2日目のお昼は「佐渡うどん」。もちろんお初。へぇ、どんなうどんやろ。
見た目はお蕎麦だった。

パッと見てクセがあるのかなと思ったのだけれど、全く違和感なく、つるっといけた。
海藻を練りこんであるのだという。調べてみると、呼び名がいくつもあるようで「ぎばさ」「ながも」「あかもく」…。覚えられない(笑)
このお店では「ぎばさ」と書いてあったが、新潟では「ながも」が一般的とか。そういえば、前夜、ホテルの夕食に「ながものお味噌汁」が出たな。あれだったのかー。とろりとした食感だった。
このヒバマタ目ホンダワラ科の海藻は特にミネラルやポリフェノール類が多いのだという。近年注目されているスーパーフードだそうで。

佐渡うどん一品だけなら素朴なはずだが、多種の副菜を付けて華やかなメニューにしてあった。
特に、「かき揚げ」に目を奪われた。佐渡の魚介を使っているという。

農家をリノベーションしたというお店

佐渡うどん蒼井⇒★
今回の佐渡旅も、娘らがいろいろと趣向をこらしてくれていた。
2日目のお昼は「佐渡うどん」。もちろんお初。へぇ、どんなうどんやろ。
見た目はお蕎麦だった。

パッと見てクセがあるのかなと思ったのだけれど、全く違和感なく、つるっといけた。
海藻を練りこんであるのだという。調べてみると、呼び名がいくつもあるようで「ぎばさ」「ながも」「あかもく」…。覚えられない(笑)
このお店では「ぎばさ」と書いてあったが、新潟では「ながも」が一般的とか。そういえば、前夜、ホテルの夕食に「ながものお味噌汁」が出たな。あれだったのかー。とろりとした食感だった。
このヒバマタ目ホンダワラ科の海藻は特にミネラルやポリフェノール類が多いのだという。近年注目されているスーパーフードだそうで。

佐渡うどん一品だけなら素朴なはずだが、多種の副菜を付けて華やかなメニューにしてあった。
特に、「かき揚げ」に目を奪われた。佐渡の魚介を使っているという。

農家をリノベーションしたというお店

佐渡うどん蒼井⇒★
07
佐渡旅行④いごねり
8月20~22日、二泊三日の佐渡旅行は同じホテルに宿泊。
楽しみはもちろん夕食である。
1日目

食べきれないほど

↑アワビの酒蒸しはお持ち帰りで、部屋飲みのアテに(笑)
2日目

↑最初だけしか写真がないのは、この後、ホテルが案内してくれる金銀山「北沢浮遊選鉱場跡」のライトアップツァーに参加するために、ちょっと急いだせいかも(;^_^A
お食事のなかで、「いごねり」という一品が印象に残った。
聞くのも食べるのも初めて。小鉢物だが、2日とも登場していた。
1日目おしながき

2日目

いごねりとは、「いご草」という海藻を利用した佐渡の郷土料理⇒★
見た目はコンニャクだが食感がちがう。佐渡のソウルフードだそうだ。
楽しみはもちろん夕食である。
1日目

食べきれないほど

↑アワビの酒蒸しはお持ち帰りで、部屋飲みのアテに(笑)
2日目

↑最初だけしか写真がないのは、この後、ホテルが案内してくれる金銀山「北沢浮遊選鉱場跡」のライトアップツァーに参加するために、ちょっと急いだせいかも(;^_^A
お食事のなかで、「いごねり」という一品が印象に残った。
聞くのも食べるのも初めて。小鉢物だが、2日とも登場していた。
1日目おしながき

2日目

いごねりとは、「いご草」という海藻を利用した佐渡の郷土料理⇒★
見た目はコンニャクだが食感がちがう。佐渡のソウルフードだそうだ。
05
福知山線廃線敷ハイキング
8月28日、Yさんの企画案内による恒例「番外編」に参加して、福知山線廃線敷をハイキング。
廃線跡は約4.7km。JR西宮名塩駅から、約15分歩いて、廃線跡入口に到着。

↑出発直後
これがまあ、武庫川渓谷に沿うすばらしい景観!

川の表情も豊かで飽きることがありません。

往時の枕木もそのままで臨場感に浸りながら


6つのトンネルと3つの橋があり、変化に富んでいます。
が、トンネル内は真っ暗。ライト必携です。1人はとても無理。お勧めできません。
でも仲間がいると日常を離れた探検気分に(笑)
一つ目の北山第1トンネルへ


↑出口が見えてきたらホッ
圧巻は、清滝尾トンネルを抜けるとすぐ鉄橋(第2武庫川橋梁)があるところ



第2武庫川橋梁は昭和29年(1954)に架け替えられたものだそうです。
鉄橋を過ぎるとまたもやトンネル

思わず、口をついて出てくるのは懐かしい歌
♪今はやまなか 今は浜
今は鉄橋渡るぞと 思う間もなくトンネルの
闇を通って広野原
こちらはトンネルを抜けると親水広場桜の園

トンネルの出口で

川のせせらぎ、緑の山々、ひんやりしたトンネルの中、真夏には最高のハイキングでした。すばらしい企画に感謝!
廃線敷ハイキングを終えて振り返ると

YAMAPの地図を確認

↑青い線が歩いた道
現在は、西宮名塩駅と武田尾駅間はずっとトンネルの中なんですねぇ。のみならず、前後もトンネル続きのようで。なんとあじけない(笑)
武庫川渓谷をゆっくり進む電車、やっぱり汽車か(笑)、に乗っているつもりで、風景を思い出しています。
昭和61年(1986) 旧国鉄福知山線生瀬駅 - 武田尾駅間が新線に切り替えられたことにより廃止
昭和62年(1987) 国鉄が分割民営化、JR各社発足
※JR福知山線廃線敷⇒★
廃線跡は約4.7km。JR西宮名塩駅から、約15分歩いて、廃線跡入口に到着。

↑出発直後
これがまあ、武庫川渓谷に沿うすばらしい景観!

川の表情も豊かで飽きることがありません。

往時の枕木もそのままで臨場感に浸りながら


6つのトンネルと3つの橋があり、変化に富んでいます。
が、トンネル内は真っ暗。ライト必携です。1人はとても無理。お勧めできません。
でも仲間がいると日常を離れた探検気分に(笑)
一つ目の北山第1トンネルへ


↑出口が見えてきたらホッ
圧巻は、清滝尾トンネルを抜けるとすぐ鉄橋(第2武庫川橋梁)があるところ



第2武庫川橋梁は昭和29年(1954)に架け替えられたものだそうです。
鉄橋を過ぎるとまたもやトンネル

思わず、口をついて出てくるのは懐かしい歌
♪今はやまなか 今は浜
今は鉄橋渡るぞと 思う間もなくトンネルの
闇を通って広野原
こちらはトンネルを抜けると親水広場桜の園

トンネルの出口で

川のせせらぎ、緑の山々、ひんやりしたトンネルの中、真夏には最高のハイキングでした。すばらしい企画に感謝!
廃線敷ハイキングを終えて振り返ると

YAMAPの地図を確認

↑青い線が歩いた道
現在は、西宮名塩駅と武田尾駅間はずっとトンネルの中なんですねぇ。のみならず、前後もトンネル続きのようで。なんとあじけない(笑)
武庫川渓谷をゆっくり進む電車、やっぱり汽車か(笑)、に乗っているつもりで、風景を思い出しています。
昭和61年(1986) 旧国鉄福知山線生瀬駅 - 武田尾駅間が新線に切り替えられたことにより廃止
昭和62年(1987) 国鉄が分割民営化、JR各社発足
※JR福知山線廃線敷⇒★
03
佐渡旅行③ 世阿弥が配流された万福寺の跡
世阿弥が佐渡島へ流されて、最初に過ごした場所が、国道360号沿いにあることを知り、両津港からホテルまで車を走らせる途中、立ち寄ってもらった。

世阿弥が佐渡島へ配流されたのは、室町時代の永享6年(1434)。時の将軍、足利義教の逆鱗にふれたとされる。齢72歳。この2年前に、息子元雅を亡くしており、心中いかばかりであったろうかと察するに余りある。
だが、世阿弥さん、さすがに常人とはちがう。
配流されたコースや風景を書いた「金島書」なる作品が残っているのだ。7編の小謡とされるが、紀行文風。
これによると、永享6年5月4日、都を出発、若狭の小浜から佐渡島をめざしている。
…
船止むる、津田の入海見渡せば、…、五月も早く橘の、昔こそ身の、若狭路と見えしものを、今は老の後脊山。されども松は緑にて、木深き木末は景色だつ、青葉の山の夏陰の、海の匂ひに移ろひて、さすや潮も青浪の、さも底ひなき水際哉…。
船から見える風景も書きとどめている。
…雪の白山ほの見えて、雪間や遠く残らん。なを行末も旅衣、能登の名に負ふ国つ神、珠洲の岬や七島の、海岸遥かにうつろひて、入日を洗ふ沖つ波、そのまま暮れて夕闇の、蛍とも見る漁火や、夜の浦をも知らすらん。
たなびく雲の立山や、明け行く天の砺波山、倶利伽羅峰までも、それぞとばかり三越路の、船遥々と漕ぎ渡る、末有明の浦の名も、月をそなたの知るべにて、…
ここはと問はば佐渡の海、太田の浦に着にけり。
情緒豊かに風景を切り取っていて、流罪になった船旅とは思えない。
その日は、大田(現在の多田であろう)で泊まり、翌日は峠越えして、万福寺に着いている。
途中、長谷寺にお参りするのだが、
観音の霊地わたらせ給。故郷にても聞きし名仏にて
と、奈良の長谷寺を思う。
佐渡の長谷寺、確認してみると、奈良の長谷寺を模したとか?⇒★
あ、ちょうこくじ、と読むようで。真言宗豊山派、牡丹の名所、十一面観音がご本尊…よく似ているよね。

万福寺跡にある説明板

石碑には

↑
補厳寺世阿弥碑期成会
金井町
とあって、万福寺跡のある金井町と、補厳寺世阿弥碑期成会、が建てたようだ。
補厳寺は、奈良県田原本町にある世阿弥ゆかりのお寺。こちらにある「世阿弥参学之地碑」も、補厳寺世阿弥碑期成会が建てられたと記憶する。
石碑のあるあたり

検索していたら、平成23年に撮られたこんな写真を発見。⇒★
拝借m(__)m

↑写真は石碑が建てられた頃?
現在は手入れが行き届いているとは言い難い状況。何だかちょっとさみしくなったのだった。
※上記、「金島書」の引用は、『日本思想大系 世阿彌 禅竹』(岩波書店)所収より


世阿弥が佐渡島へ配流されたのは、室町時代の永享6年(1434)。時の将軍、足利義教の逆鱗にふれたとされる。齢72歳。この2年前に、息子元雅を亡くしており、心中いかばかりであったろうかと察するに余りある。
だが、世阿弥さん、さすがに常人とはちがう。
配流されたコースや風景を書いた「金島書」なる作品が残っているのだ。7編の小謡とされるが、紀行文風。
これによると、永享6年5月4日、都を出発、若狭の小浜から佐渡島をめざしている。
…
船止むる、津田の入海見渡せば、…、五月も早く橘の、昔こそ身の、若狭路と見えしものを、今は老の後脊山。されども松は緑にて、木深き木末は景色だつ、青葉の山の夏陰の、海の匂ひに移ろひて、さすや潮も青浪の、さも底ひなき水際哉…。
船から見える風景も書きとどめている。
…雪の白山ほの見えて、雪間や遠く残らん。なを行末も旅衣、能登の名に負ふ国つ神、珠洲の岬や七島の、海岸遥かにうつろひて、入日を洗ふ沖つ波、そのまま暮れて夕闇の、蛍とも見る漁火や、夜の浦をも知らすらん。
たなびく雲の立山や、明け行く天の砺波山、倶利伽羅峰までも、それぞとばかり三越路の、船遥々と漕ぎ渡る、末有明の浦の名も、月をそなたの知るべにて、…
ここはと問はば佐渡の海、太田の浦に着にけり。
情緒豊かに風景を切り取っていて、流罪になった船旅とは思えない。
その日は、大田(現在の多田であろう)で泊まり、翌日は峠越えして、万福寺に着いている。
途中、長谷寺にお参りするのだが、
観音の霊地わたらせ給。故郷にても聞きし名仏にて
と、奈良の長谷寺を思う。
佐渡の長谷寺、確認してみると、奈良の長谷寺を模したとか?⇒★
あ、ちょうこくじ、と読むようで。真言宗豊山派、牡丹の名所、十一面観音がご本尊…よく似ているよね。

万福寺跡にある説明板

石碑には

↑
補厳寺世阿弥碑期成会
金井町
とあって、万福寺跡のある金井町と、補厳寺世阿弥碑期成会、が建てたようだ。
補厳寺は、奈良県田原本町にある世阿弥ゆかりのお寺。こちらにある「世阿弥参学之地碑」も、補厳寺世阿弥碑期成会が建てられたと記憶する。
石碑のあるあたり

検索していたら、平成23年に撮られたこんな写真を発見。⇒★
拝借m(__)m

↑写真は石碑が建てられた頃?
現在は手入れが行き届いているとは言い難い状況。何だかちょっとさみしくなったのだった。
※上記、「金島書」の引用は、『日本思想大系 世阿彌 禅竹』(岩波書店)所収より

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