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かぎろひNOW

悠久の奈良大和路を一歩ずつ  風景、もの、人…との出会いを楽しみながら

香久山古墳 

大宇陀にて、続きです。①⇒ ②⇒
大亀和尚民芸館に「香久山古墳」からの出土品が展示されていました。

180515香久山古墳出土品

香久山古墳の出土品がなぜ大宇陀に?
いやぁ、先入観や思い込みははいけませぬな。
香久山古墳という名前は聞いたことがあったのですが、勝手に、あの(大和三山の)香久山近くにあるのだろうと思っていたのです。

説明(クリックで拡大)

180515香久山古墳説明


館の方にお尋ねしてみると、すぐの裏山にあるので簡単に行けるとのこと。懐中電灯も貸してくださって

180515香久山古墳へ


すぐに見つかりましたよ。五分もかからないくらい。
道標がないのに、石碑が立派でビックリ!

180515香久山古墳


のぞいてみましょう。

180515石室

180515石室2

落石が確認されているとのことで、ゆめゆめ入られませんように。

古墳の名前って、たいてい小字名が付けられますよね。
だとすれば、大宇陀のこのあたりの小字は「香久山」?! 
こちらの香久山もちょっと気になるなぁ。

詳しい説明は⇒
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Posted on 2018/06/02 Sat. 09:35 [edit]

category: 発掘情報・古墳

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02

四条1号墳 

12月23日、ようやく、年賀状に着手。

171223年賀状

最近はちゃっかりと、次期「かぎろひ歴史探訪」の案内を入れているのですが、今日は下段にそれを印刷しただけ^^;
あとは、賀詞も印刷して、空きスペースに1人1人の顔を思い浮かべて手書きするのですが…。

干支は、たいていその年に撮った写真の中から選ぶようにしているんですけどね、来年は犬…何かあったっけ。

あっ、そうそう!
では、11月23日に四条遺跡(橿原市畝傍町)の現地説明会へ行ったお話から。

発掘した土を盛り上げて固め、そのてっぺんに現説会場。

171123四条遺跡

↑向こうに見えているのは畝傍山


おかげで、遺跡全体を俯瞰できて、とてもわかりやすかったのです。

171123四条遺跡2

内濠と外濠、二重周濠をもつ珍しい方墳の実態が明らかになりました。
しかも、台形の造出(つくりだし)が取り付く(↑左手)のも、全国的に見てもわずかな例らしい。


四条遺跡といっても広い範囲内に古墳がいっぱい

171123四条遺跡群

この日の説明は、四条1号墳と言われているもので、実は30年前に発掘済みなのです。
その時の調査では、大量の鳥形・盾形・刀形・鉾形などの木製品を始め、巫女・力士などの人物埴輪、馬・鹿・犬・鶏などの動物埴輪も出土したとか。古墳築造当時、周濠内か墳丘上に立てられていたとみられています。


現地説明会の後、橿原考古学研究所附属博物館で開催中の秋季特別展「黒塚古墳のすべて」へ行ったのですが、常設に四条遺跡からの出土品がたくさん展示されていましてね。常設展は写真もほぼOK♪

171123四条遺跡出土品2

171123四条遺跡木製品

171123四条遺跡出土品

↑左がワンちゃん

えへへ、年賀状にはこの方に登場いただきましょう。

1712犬埴輪

Posted on 2017/12/23 Sat. 19:46 [edit]

category: 発掘情報・古墳

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23

東弓削遺跡(由義寺跡) 

遅くなりましたが、2月11日に行われた現地説明会のご報告です。

前日、新聞の朝刊一面に、道鏡の寺、由義寺、七重塔・・の文字が踊りましたね!

170210新聞

↑これは産経新聞


「かぎろひの大和路」誌の最終段階を迎えているときでもあり、誌上の発掘情報「地中からの声」もすでに出来上がっているし、場所も大阪やし(八尾市)、やめとこ。
と思ったんですけどね、翌日やっぱり、行きたくなりまして。記事は差し替え~。

もうひとつ、ワタクシを現地説明会へ向かわせた理由があります。
「道鏡を守る会」を主宰されている宮城県のHさんがかぎろひ誌の読者で、道鏡について熱心に調べ発信されているのを知っているせい。宮城県からすぐにかけつけるのは無理だろうから、代わりに行かねば、という責任感みたいなものも。


ではまず、『続日本紀』を確認してみましょう。
称徳天皇の、天平神護、宝亀年間に、「由義寺」という名前が何回か(4回?)出てきます。

あ、わかりやすい関連年表が、当日の資料に付けてくれていました。

170210年表

↑クリックで少し大きくなりますが、見にくかったらごめんなさい。


由義寺の塔とあるのはたった1か所なのですが、この塔の基壇が見つかった、というのですね。

昨年9月、奈良時代後期の瓦がたくさん出土したことを受けて、調査が続けられていました。


現地へ。
久しぶりの、県外、現地説明会。担当は八尾市教育委員会。

場所は↓




現場

170210現場


上空からの写真が現地に掲示されていました。

170210上空から


見つかった塔の基壇は正方形で一辺約20m。
東大寺東塔の24m(→)に次ぐ大きさで、大安寺の21mに匹敵。七重塔の可能性が高いとみられています。


基壇は、粘質土と砂質土を交互に突き固めた「版築」工法によって築かれています(以下、写真はクリックで大きくなります)。

170210版築



では角度を変えて。これは基壇東端。

170210基壇東端


基壇西端

170210基壇西端


基壇南端

170219基壇南端


基壇北端

170210基壇北端


塔心礎などの礎石は失われていましたが、大きい石も

170210礎石

大きさ1.3×1.0、暑さ0.5m、四天柱か側柱の礎石のようです。


基壇を強固にするために石を入れた「掘込地業」も確認

170210版築内の石


出土コーナーが大人気でした。

興福寺式の瓦

170211興福寺式瓦


東大寺式軒平瓦

170211東大寺式軒平瓦


和同開珎、萬年通寶、神功開寶なども出土、地鎮のための鎮壇具の一部とみられています。


現地説明会を終えてから、志紀駅近くのこんもりを見つけて行ってみたら、やっぱり!

170211弓削神社


このあたりは道鏡さんの出身地。地名にも残ります。

170211八尾市弓削


※現地説明会の資料が公開されています。→

Posted on 2017/02/24 Fri. 10:12 [edit]

category: 発掘情報・古墳

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東大寺東塔院跡 現地説明会2016 

10月8日、東大寺東塔院跡の現地説明会へ行ってまいりました。

161008現地説明会

161008現説資料


奈良時代、東大寺には東と西に七重塔があったことがわかっています。
天平宝字8年(764)頃に創建、平氏の南都焼き討ちにあって焼失。鎌倉時代に東塔のみが再建されましたが、南北朝時代の康安2年(1362)落雷のため再び焼けてしまいました。


東塔があった場所(当日の掲示より)

161008地図


年表(当日の掲示)

161009年表


昨年の調査では、鎌倉時代の塔基壇が確認されました。→

今回は、奈良時代の基壇が出土、24m四方だったことが確認されました(鎌倉時代は27m四方)。


調査区平面図(当日配布の資料より)

161008調査区平面図


心礎の抜取穴。大きい~

161008抜取り穴


奈良時代の石敷きも

161008奈良時代



南面の階段遺構

161008階段

奈良時代の階段の幅は鎌倉時代のものよりも広く、どうやら構造が異なっていたらしいとのこと。


新聞紙上でいちばんよく報道されていた「南都焼き討ち」を物語る痕跡。

161008焼討痕跡

黒く焦げた石材が斜めに倒れていて、戦火のすさまじさを物語っていました。


南門の調査

161008南門


鎌倉時代の雨落溝を確認、創建当初も同じ位置だったと考えられています。

161008雨落溝


出土した鬼瓦

161008鬼瓦


※現地説明会資料(クリックで大きくなります)

161008解説


そうそう、かつて大阪万博で蘇った東大寺七重塔。その相輪部分が大仏殿東側に移設されています(2016.8.9撮影)。
これだけで23mあるとか。想像がふくらみますね~。

万博 相輪

Posted on 2016/10/09 Sun. 18:45 [edit]

category: 発掘情報・古墳

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奈良警察署跡から弥生前期の水田跡 

奈良警察署跡で、広大な水田跡が見つかり、6月25日、現地説明会(奈良県立橿原考古学研究所)が開かれました。
水田跡は、御所市の中西遺跡で出たときの現説に行ったことがありますが(→のまん中あたり)、奈良市内というのは珍しいですよね。
午前午後とも予定が入っていたのですが、現場があまりにも近いので、所用の間隙を縫って、自転車を走らせてきました。


昨年12月に、奈良時代の遺構に関する現地説明会がありましたが(→)、今回の出土はその下の層になります。


古代から現代までの堆積層

160625地層


出土遺物の中にはこんなものもあって

160625火山灰

へえぇ、これって何千年も前のこと? 火山活動があった? 若草山が?
と、こちらにも興味を奪われました。


さて、見つかった水田ですが、 平城京左京二坊十四坪の調査区のほぼ全域で確認され、広さ5500㎡。

160625正面は奈良市役所

↑南から撮影。正面は奈良市役所


↓西北から

160625西北から


↓現説資料の表紙

160625資料表紙


水田一区画の面積が平均7㎡と小さいのが特徴で約500区画。当時の作業効率を考えると小さく区切られるのは当然で、これは中西遺跡でも同様でした。

区画する畦(あぜ)は幅1m弱もある大きなものと、幅30㎝ほどの小さなものがあり、全体でみるとさながら「あみだくじ」状(現説資料引用)。資料から↓

160625資料より上空から


調査区の北側には、水路も。ここから田に水を引いたらしい。

160625水路


出土遺物はあまり多くなかったようです。
石包丁

160625石包丁


弥生土器片

160625弥生土器


160625土器片アップ


水田として利用されていたのは、短期間だったと見られています。


雨がぱらつくお天気だったせいか、現地説明会としては人が少なかったようにも思いましたが、ワタクシは懐かしいお二人に出会ってしばしおしゃべり。


※詳しくは現説資料をどうぞ(クリックで拡大します)

160625説明資料

Posted on 2016/06/26 Sun. 22:16 [edit]

category: 発掘情報・古墳

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