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かぎろひNOW

悠久の奈良大和路を一歩ずつ  風景、もの、人…との出会いを楽しみながら

東弓削遺跡(由義寺跡) 

遅くなりましたが、2月11日に行われた現地説明会のご報告です。

前日、新聞の朝刊一面に、道鏡の寺、由義寺、七重塔・・の文字が踊りましたね!

170210新聞

↑これは産経新聞


「かぎろひの大和路」誌の最終段階を迎えているときでもあり、誌上の発掘情報「地中からの声」もすでに出来上がっているし、場所も大阪やし(八尾市)、やめとこ。
と思ったんですけどね、翌日やっぱり、行きたくなりまして。記事は差し替え~。

もうひとつ、ワタクシを現地説明会へ向かわせた理由があります。
「道鏡を守る会」を主宰されている宮城県のHさんがかぎろひ誌の読者で、道鏡について熱心に調べ発信されているのを知っているせい。宮城県からすぐにかけつけるのは無理だろうから、代わりに行かねば、という責任感みたいなものも。


ではまず、『続日本紀』を確認してみましょう。
称徳天皇の、天平神護、宝亀年間に、「由義寺」という名前が何回か(4回?)出てきます。

あ、わかりやすい関連年表が、当日の資料に付けてくれていました。

170210年表

↑クリックで少し大きくなりますが、見にくかったらごめんなさい。


由義寺の塔とあるのはたった1か所なのですが、この塔の基壇が見つかった、というのですね。

昨年9月、奈良時代後期の瓦がたくさん出土したことを受けて、調査が続けられていました。


現地へ。
久しぶりの、県外、現地説明会。担当は八尾市教育委員会。

場所は↓




現場

170210現場


上空からの写真が現地に掲示されていました。

170210上空から


見つかった塔の基壇は正方形で一辺約20m。
東大寺東塔の24m(→)に次ぐ大きさで、大安寺の21mに匹敵。七重塔の可能性が高いとみられています。


基壇は、粘質土と砂質土を交互に突き固めた「版築」工法によって築かれています(以下、写真はクリックで大きくなります)。

170210版築



では角度を変えて。これは基壇東端。

170210基壇東端


基壇西端

170210基壇西端


基壇南端

170219基壇南端


基壇北端

170210基壇北端


塔心礎などの礎石は失われていましたが、大きい石も

170210礎石

大きさ1.3×1.0、暑さ0.5m、四天柱か側柱の礎石のようです。


基壇を強固にするために石を入れた「掘込地業」も確認

170210版築内の石


出土コーナーが大人気でした。

興福寺式の瓦

170211興福寺式瓦


東大寺式軒平瓦

170211東大寺式軒平瓦


和同開珎、萬年通寶、神功開寶なども出土、地鎮のための鎮壇具の一部とみられています。


現地説明会を終えてから、志紀駅近くのこんもりを見つけて行ってみたら、やっぱり!

170211弓削神社


このあたりは道鏡さんの出身地。地名にも残ります。

170211八尾市弓削


※現地説明会の資料が公開されています。→
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Posted on 2017/02/24 Fri. 10:12 [edit]

category: 発掘情報・古墳

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24

東大寺東塔院跡 現地説明会2016 

10月8日、東大寺東塔院跡の現地説明会へ行ってまいりました。

161008現地説明会

161008現説資料


奈良時代、東大寺には東と西に七重塔があったことがわかっています。
天平宝字8年(764)頃に創建、平氏の南都焼き討ちにあって焼失。鎌倉時代に東塔のみが再建されましたが、南北朝時代の康安2年(1362)落雷のため再び焼けてしまいました。


東塔があった場所(当日の掲示より)

161008地図


年表(当日の掲示)

161009年表


昨年の調査では、鎌倉時代の塔基壇が確認されました。→

今回は、奈良時代の基壇が出土、24m四方だったことが確認されました(鎌倉時代は27m四方)。


調査区平面図(当日配布の資料より)

161008調査区平面図


心礎の抜取穴。大きい~

161008抜取り穴


奈良時代の石敷きも

161008奈良時代



南面の階段遺構

161008階段

奈良時代の階段の幅は鎌倉時代のものよりも広く、どうやら構造が異なっていたらしいとのこと。


新聞紙上でいちばんよく報道されていた「南都焼き討ち」を物語る痕跡。

161008焼討痕跡

黒く焦げた石材が斜めに倒れていて、戦火のすさまじさを物語っていました。


南門の調査

161008南門


鎌倉時代の雨落溝を確認、創建当初も同じ位置だったと考えられています。

161008雨落溝


出土した鬼瓦

161008鬼瓦


※現地説明会資料(クリックで大きくなります)

161008解説


そうそう、かつて大阪万博で蘇った東大寺七重塔。その相輪部分が大仏殿東側に移設されています(2016.8.9撮影)。
これだけで23mあるとか。想像がふくらみますね~。

万博 相輪

Posted on 2016/10/09 Sun. 18:45 [edit]

category: 発掘情報・古墳

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09

奈良警察署跡から弥生前期の水田跡 

奈良警察署跡で、広大な水田跡が見つかり、6月25日、現地説明会(奈良県立橿原考古学研究所)が開かれました。
水田跡は、御所市の中西遺跡で出たときの現説に行ったことがありますが(→のまん中あたり)、奈良市内というのは珍しいですよね。
午前午後とも予定が入っていたのですが、現場があまりにも近いので、所用の間隙を縫って、自転車を走らせてきました。


昨年12月に、奈良時代の遺構に関する現地説明会がありましたが(→)、今回の出土はその下の層になります。


古代から現代までの堆積層

160625地層


出土遺物の中にはこんなものもあって

160625火山灰

へえぇ、これって何千年も前のこと? 火山活動があった? 若草山が?
と、こちらにも興味を奪われました。


さて、見つかった水田ですが、 平城京左京二坊十四坪の調査区のほぼ全域で確認され、広さ5500㎡。

160625正面は奈良市役所

↑南から撮影。正面は奈良市役所


↓西北から

160625西北から


↓現説資料の表紙

160625資料表紙


水田一区画の面積が平均7㎡と小さいのが特徴で約500区画。当時の作業効率を考えると小さく区切られるのは当然で、これは中西遺跡でも同様でした。

区画する畦(あぜ)は幅1m弱もある大きなものと、幅30㎝ほどの小さなものがあり、全体でみるとさながら「あみだくじ」状(現説資料引用)。資料から↓

160625資料より上空から


調査区の北側には、水路も。ここから田に水を引いたらしい。

160625水路


出土遺物はあまり多くなかったようです。
石包丁

160625石包丁


弥生土器片

160625弥生土器


160625土器片アップ


水田として利用されていたのは、短期間だったと見られています。


雨がぱらつくお天気だったせいか、現地説明会としては人が少なかったようにも思いましたが、ワタクシは懐かしいお二人に出会ってしばしおしゃべり。


※詳しくは現説資料をどうぞ(クリックで拡大します)

160625説明資料

Posted on 2016/06/26 Sun. 22:16 [edit]

category: 発掘情報・古墳

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26

豊田狐塚古墳 現地説明会 

4月9日、打ち合わせ会議終了後、豊田狐塚(とよだきつねづか)古墳の現地説明会へすっとんでいきました。
JR奈良駅から万葉まほろば線で天理駅へ。そこから歩いて15~20分くらいだったかな。

昨年、すぐ近くの豊田トンド山古墳の現説へ行っていますのでね、ははん、あのあたりやな、都市計画道路にともなう発掘調査も一緒やなと、すぐに見当がつきました。

豊田トンド山古墳の発掘調査 現地説明会(2015.5.2)→

遠望(去年も同じ所から撮っている・笑)

150409遠望

↑集落の背後、中央やや左よりに山肌がちょっと見えているのが、豊田トンド山古墳。狐塚古墳はその東(右)


静かなたたずまいの豊田集落。いつもお騒がせしてすみません。

160409案内



地図で見てみましょう。『天理の古墳』(天理市教育委員会)掲出の地図に2つの古墳を書き入れてみました(クリックで拡大します)。

160409地図


上空から見ると(現地掲示写真)

160409航空写真


この日、4回目の説明に間に合いまして。
(説明されるのは天理市教育委員会文化財課の石田大輔主査)。

160409現地説明会



発見された横穴式石室。6世紀中ごろのものと考えられています。

1604009石室

↑西北のほうから撮っていますが、南の方向に開口。
玄室(死者を安置した部屋)の床面約4.4m、奥壁の幅約2.2m、床面からの高さ約2.2m。
床面には直径5~10㎝ほどの石が敷き詰められていました。

盗掘を受けているようですが、たくさんの副葬品が見つかっています。

須恵器が50以上

160409出土品

小型鏡(旋回式獣像鏡) 直径9㎝

160409鏡


玉類

160409玉類

↑左上から時計回りに銀製空玉(うつろだま)、琥珀製平玉、水晶製切子玉、土製丸玉


鉄製品には武器と、馬具も

160409鉄製品


出土状況(現地掲示より クリックで拡大)

160409.jpg


床面に木質が残存していることから、少なくとも3基の木棺が安置されていたようだと推定されています。


現地説明会資料「おわりに」より

豊田狐塚古墳は石上神宮や布留遺跡を見下ろす高所にあり、これらを強く意識した立地といえます。
墳丘や横穴式石室の規模、副葬品の質・量からみても、首長層を支えた有力者の墓である可能性が高いと考えられます。



豊田トンド山古墳から見た豊田狐塚古墳

160409トンド山古墳から


この日、急いで現地へ到着。大勢のなかで、いきなり奇跡的な出会いをした白雪さん!

160409白雪さん

あら、白雪さんって妙齢のご婦人なのでは? と思われた方には申しわけございません(笑) 


当日の現地説明会資料をどうぞ(2回クリックでさらに大きく)

160409現説資料

160409現説資料2

Posted on 2016/04/12 Tue. 13:48 [edit]

category: 発掘情報・古墳

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東大寺東塔院跡 現地説明会 

11月21日、東大寺東塔院跡発掘調査の現地説明会へ。

11時に近鉄奈良駅近くで別件約束があり、10時からの現説ではキビシイかな、でも行きたい、もしかしたら前倒しで開始される可能性もありやな、と勝手に願いつつ、現地に9時到着。

願いはピンポーン、30分早く始まりました。

151121東大寺東塔院跡.全体pg



調査は5か年計画で進められているとのことですが、今回の成果はなんといっても鎌倉時代の塔の基壇が確認されたことでしょう。南東部と北側に、奈良時代の痕跡も。奈良時代の基壇は24m、鎌倉時代には外側に1.5m拡張されて27mとなったことがわかりました。

151121北東から2

盛り土の中には焼土が混じり、その部分には奈良時代の瓦が確認できたそうで、平重衡による焼き討ち時のものと考えられるとか。


心礎も礎石も抜き取られていて残っていませんが、大きいものであったことがその穴の状態から感じられます。

151121礎石抜取穴.2pg

151121礎石抜取穴


中央区遺構図(配布資料より。クリックで拡大)

151121中央区遺構図


抜取穴の並び方から、塔の柱の配置や柱間の広さなどが浮かび上がりました。
中央間が20尺(約6m)、両脇間が18尺(約5.4m)。
これは東大寺南大門の柱間と同じ寸法とか。現説の帰りに撮影。

151121南大門


想像力を駆使して、七重塔の大きさ、高さを描いてみるのですが・・・うーむ。

天沼俊一氏が復元された七重塔の模型が大仏殿内にありますから参考にしてください、というお話があったのですが、もう時間がありません。それで、以前に撮った写真を探してみましたよ(2012.1.7撮影。クリックでもう少し大きくなります)。

7重塔大



東塔院跡を取り囲むように立つ銀杏の何本かは、この日のために葉を散らさずに待っていてくれたかのような風情。
見守るような姿がなんとも頼もしく、すばらしくて、ファインダーをのぞくたびに、「アンタが主役!」とシャッターをおしていました(笑)

151121銀杏2


それにしても、心礎や礎石はいったいどこへ持ち去られたのでしょう?
明治の廃仏毀釈以降に抜き取られたようですが、気になりません?
関係者はその行方に、ある程度の見当をつけられているのでは?

で、こそっとお尋ねしてみましたよ。
1つの可能性としては、東塔跡からちょっと西にある石碑の台座、とか。
帰りに立ち寄ってみました。

これですね。

151121石碑2


近づいてみると、おお!

151121礎石?

151121礎石?2


11月21日現地説明会配布資料

151121資料


↓クリック(2回)で拡大します。

151121資料2~3

151121資料4

Posted on 2015/11/22 Sun. 11:41 [edit]

category: 発掘情報・古墳

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